西郷隆盛の名言(4)
人が踏み行うべき道を実践するのに、身分が尊いか卑しかなどといったことはまったく関係がないことだ。
昔、尭・舜(中国古代の伝説上の帝王)は国王として政治の一切を行っていたが、二人の本質というのは、正しい道を人々に教える教師である。
孔子は魯の国をはじめどこの国にも用いられず、何度も困難な苦しい目に遭い、身分の低いままに生涯を終えたが、三千人の子弟は、みな教えられた道を実践したのである。
人が踏み行うべき道を実践する者には、困難な苦しいことはつきものであるから、どんな難しい場面に立っても、そのことがうまくいくかどうか、その身が生きるか死ぬかといったことなどどうでもいいことなのだ。
物事をなすには上手下手があり、物によってはよくできる人、あまりできない人もある。
そのことに動揺する人もあろうが、天の道を実践するという点では上手下手もなく、できないという人もないものなのだ。
だから、ひたすら道を行い、道を楽しみ、もし困難に遭い、それを乗り切ろうと思うならば、ますますその道を実践し楽しむという心を持つがいい。
私は若い時から、困難という困難に遭って来たので、今はどのようなことに出会っても動揺することはない。
それだけは幸せである。
人が踏み行うべき道を実践する者が、世間の人がこぞってそしっても決して不満をいわず、世間の人がこぞってほめても自分に満足しないのは、信念が厚いからである。
そのような人物になるには、唐の韓愈の書いた「伯夷頌」(忠義の士、伯夷・叔斉兄弟をほめ称えたもの)を熟読してしっかり身につけるべきである。
人が踏み行うべき道を実践しようとする者は、偉業を尊ばないものである。
北宋の司馬温公(司馬光)は、寝床で語る言葉さえ、人にいえないようなことはないといわれた。
独りを慎むということの真意はいかなるものであるかわかるであろう。
人の意表をつくようなことをして、一時的にいい気分に浸るのは、未熟者のすることで、戒めなければならないことだ。
普段から踏み行うべき道の実践を心がけていない人は、大事に直面すると狼狽し、正しく対処できないものだ。
たとえば、近所で火事が発生したとき、普段から心構えのできている者は動揺することなく、てきぱきとこれに対処することができる。
しかし、普段から心構えのできていない者は、ただ狼狽して、うまく処理することなどできない。
それと同じことで、普段から道の実践を心がけている人でなければ、大事に直面したとき、すぐれた対策はできない。
私は先年の戦い(戊辰戦争)の出陣の日、兵士に向かって自軍の備えが十分であるかどうか、ただ味方の目で見るのではなく、敵の心になって一つ突いて見よ、それこそ第一の備えであると指示したことがある。
人を言いくるめて、陰でこそこそ事を企てる者は、たとえそれがうまくいったとしても、物事を見抜く力のある者から見れば、醜いことこの上もない。
人に提言するときは、公平かつ誠実でなければならない。
公平でなければ、すぐれた人の心をつかむことはできないものだ。
聖人や賢人になろうとする志がなく、昔の人が行った史実をみて、とてもこのようなことは自分にはできないというような心であったら、戦いを前に逃げるよりも、はるかに卑怯なことだ。
朱子(南宋の儒学者)も抜き身の刀を見て逃げる者はどうしようもないといわれた。
真心をもって聖人・賢人の書を読み、その行いの根底にある精神を、自分の心身で体験するような修業をしないで、ただ成人・賢人の言葉や行いを知ったところで何の役にも立たない。
私は今、人のいうことを聞くに、いかにもっともらしく論じても、その行いに精神が行き渡らず、ただ口先だけのことであるならば、少しも感心しない。
実際に行動する人を見ると、実に立派だと感じるのである。
聖人・賢人の書をむなしく知識として読むのであったら、たとえば人の剣術を傍観しているのと同じで、少しも身につかない。
身につかなければ、万一立ち合えと言われたら、逃げるよりほかないであろう。
この世の中で後の世でも信じ仰がれ、喜んで従おうとするものは、ただ一つ誠の心だけである。
昔から父の仇を討った人はたくさんいるが、その中でひとり曾我兄弟だけが、今になっても子どもや女性にいたるまで、知らないものがいないのは、多くの人にぬきんでて誠の心が厚いからである。
誠の心がないのに世間の人から誉められるのは偶然の幸運に過ぎない。
誠の心が厚ければ、たとえその当時に知る人がなくても、後の世に必ず理解してくれる人があらわれるものだ。
世間の人がいう機会とは、たいてい思いがけずに得た幸運のことを指している。
しかし、真の機会というのは道理に適い、時の勢いを正しく把握して行動する場合のことだ。
かねて天下国家を憂える真心が厚くないのに、ただ時の弾みに乗って成功した事業は、決して長続きはしないものだ。
今の人は、才能や知識があれば、事業というのは思いのままにできると思っているが、才能にまかせて行うことは、危なっかしくて見ておられない。
しっかりした内容があってこそ物事は立派に行われるものだ。
肥後の長岡先生(熊本藩家老の長岡監物)のような君子は、今は似ている人ですら見ることができなくなった、と嘆かれて次の古語を書いて与えられた。
天下は、誠にあらざれば動かず、才にあらざれば治まらず。
誠の至る者その動くや早し。
才のあまねき者その治むるや広し。
才と誠と合して、しかる後事なるべし。
次ページへ続きます。
|
|
|