上杉謙信の名言には、次のような言葉があります。
- 人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり
- 生を必するものは死し、死を必するものは生く
戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から軍神や越後の虎などと称される上杉謙信(1530~1578)の名言をご紹介します。
上杉謙信の生涯
| 氏名 | 上杉謙信 |
|---|---|
| 生年月日 | 1530年2月18日 |
| 没年月日 | 1578年4月19日 |
| 享年 | 48(歳) |
| 国籍 | 日本 |
| 出生地 | 越後国春日山城(現在の新潟県上越市春日山町) |
| 職業 | 武将、大名 |
| 別名 | 「軍神」「越後の龍」「越後の虎」 |
| 名言 | 生を必するものは死し、死を必するものは生く |
1530年2月18日、越後守護代・長尾為景の四男として生まれる。幼名は虎千代。
虎千代が6歳のときに父・為景は隠居し、兄の長尾晴景が家督を継ぐ。
虎千代は13歳で元服し、長尾景虎と名乗る。
兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、景虎が14歳のときに越後の豪族が謀反を起こすも景虎が鎮圧。
1548年、兄・晴景は隠退し、景虎は18歳で家督を相続。
1550年、主君の守護・上杉定実が後継者を遺さずに死去。将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認める。
景虎22歳のとき、相模国の北条氏康に上野国を攻められた関東管領・上杉憲政を迎え入れる。景虎は上野沼田城を攻める北条軍を撃退。
同年、武田信玄によって領国を追われた信濃守護・小笠原長時らが景虎に救いを求める。景虎は信濃国に出陣し、武田領内へ侵攻。武田方の諸城を攻め落とす。信玄は決戦を避けたため、景虎は深追いをせず、越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。
その後も信玄と北信濃の支配権を巡る川中島の戦いは続き、計5回に及ぶ。
1560年、30歳の景虎は北条氏康を討伐するため関東へ向けて出陣。翌年に鎌倉を落とす。さらに10万余の軍で小田原城を包囲。しかし、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、景虎の背後を牽制。景虎は兵を引いた。
1561年、景虎は山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎と改める。その後、将軍・足利義輝の一字を賜り、輝虎と改めた。
1568年、北条氏康は甲相駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻した武田信玄と断交。翌年、氏康は長年敵対してきた輝虎に和を請い、輝虎は氏康と同盟を結ぶ。
1570年、40歳の輝虎は、北条氏康の七男・三郎を養子として迎え入れる。輝虎は法号・不識庵謙信を称した。
1572年、北条氏康の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄し、武田信玄と和睦。謙信は北条氏と敵対する。
同年、武田信玄と交戦状態に入った織田信長から同盟の申し出を受け、謙信は信長と同盟を締結。
1573年、宿敵・武田信玄が病没。謙信は越中国へ出陣し、越中の過半を制圧した。
1576年、46歳の上杉謙信は信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と和睦し、信長との同盟は破綻。
1577年、織田信長は謙信との戦いに踏み切る。柴田勝家を総大将とする3万余の大軍は加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍。しかし、羽柴秀吉が総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げる。
勝家率いる織田軍は手取川を渡り、水島に陣を張ると、上杉謙信は数万の大軍を率いて一気に南下。形勢不利を悟った勝家は撤退を開始するも、上杉軍は手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した。
1578年4月15日、上杉謙信は次なる遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れる。同年4月19日に謙信は急死。48年の生涯を閉じた。
謙信は、後継を発表していなかったため、内乱によって上杉家の勢力は大きく衰えることとなる。
Wikipedia(日本語) / Wikipedia(英語)
上杉謙信の名言・格言集
【関連ページ】
・武田信玄の名言・格言
・織田信長の名言・格言
・豊臣秀吉の名言・格言
上杉謙信の名言
家訓16ヶ条「宝在心」
一、心に物なき時は心広く体泰なり
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を教う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育つる
一、心に貪りなき時は人に諂うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇みある時は悔やむことなし
一、心賤しからざる時は願い好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず
大事なのは義理の二字である。
死ぬべきに当たってその死をかえりみず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つ、これこそ武士の本意である。
信玄の兵法に、のちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという気持ちからである。
自分は国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない。
さしあたっての一戦に勝つことを心掛けている。
人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。
軽率なことは言ってはならぬ。
武士は馬を我が足と思い、弓鎗を左右の手と定め、敵を撃つ刃は己の心と考え、常に武道をたしなむ事が、本意の核心である。
昔時の名将は、暑日に扇をとらず、寒日に衣をかさねず、雨の日に笠を用いずして、士卒への礼とす。
戦場の働きは武士として当然のことだ。
戦場の働きばかりで知行を多く与え、人の長としてはならない。
人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。
我は兵を以て戦ひを決せん。
塩を以て敵を屈せしむる事をせじ。
生を必するものは死し、死を必するものは生く。
我が命のある間、国家を裏切る者を平らげ、諸国を一つに帰して、貧困に陥った人々を安住ならしめる他に希望はない。
もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜るべし。
極楽も
地獄も先は
有明の
月の心に
懸かる雲なし
※ 辞世の句
四十九年
一睡の夢
一期の栄華
一盃の酒
※ 辞世の句
おわりです。
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上杉謙信の本・関連書籍
謙信を語るとき、好敵手・信玄を無視することはできない。精捍孤高の武将謙信と千軍万馬の手だれの武将信玄。川中島の決戦で戦国最強の甲軍と龍攘虎搏の激闘を演じ得る越軍も、いささかもこれに劣るものではない。その統率者・謙信と彼の行動半径は? 英雄の心事は英雄のみが知る。
乱世を疾風の如く駆け抜けた信玄最大の好敵手。生涯「義」を貫いた越後の龍。
「軍神」と呼ばれ、「生涯不犯」を貫いた上杉謙信。毘沙門天を信仰し、助けを求められれば東奔西走し、敵陣にさえ直接馬を乗り入れる「義」を重んじる姿は、戦国最強の義将として定着している。だが、本来の謙信は、父・為景が朝廷や幕府権力を利用する武略を見て育ち、その政治手法を引き継いだ。謙信が目指したのは自らが上に立つことではなく「室町幕府再興」であった。今までの通説を、最新資料をもとに論考を重ね、新たな結論から導いた上杉謙信の実像がここにある。
上杉謙信の名言・言葉の一覧
| No. | 上杉謙信の名言一覧 |
|---|---|
| 1 | 大事なのは義理の二字である。死ぬべきに当たってその死をかえりみず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つ、これこそ武士の本意である。 |
| 2 | 信玄の兵法に、のちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという気持ちからである。自分は国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない。さしあたっての一戦に勝つことを心掛けている。 |
| 3 | 人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。軽率なことは言ってはならぬ。 |
| 4 | 武士は馬を我が足と思い、弓鎗を左右の手と定め、敵を撃つ刃は己の心と考え、常に武道をたしなむ事が、本意の核心である。 |
| 5 | 昔時の名将は、暑日に扇をとらず、寒日に衣をかさねず、雨の日に笠を用いずして、士卒への礼とす。 |
| 6 | 戦場の働きは武士として当然のことだ。戦場の働きばかりで知行を多く与え、人の長としてはならない。 |
| 7 | 人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。 |
| 8 | 我は兵を以て戦ひを決せん。塩を以て敵を屈せしむる事をせじ。 |
| 9 | 生を必するものは死し、死を必するものは生く。 |
| 10 | 我が命のある間、国家を裏切る者を平らげ、諸国を一つに帰して、貧困に陥った人々を安住ならしめる他に希望はない。もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜るべし。 |
| 11 | 極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし ※ 辞世の句 |
| 12 | 四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒 ※ 辞世の句 |
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