武田信玄の名言には、次のような言葉があります。
- 信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ
- 百人のうち九十九人に誉めらるるは、善き者にあらず
天下一の軍団として怖れられた武田軍を率いた武田信玄(1521~1573)の名言をご紹介します。
武田信玄の生涯
| 氏名 | 武田信玄 |
|---|---|
| 生年月日 | 1521年12月1日 |
| 没年月日 | 1573年5月13日 |
| 享年 | 51(歳) |
| 国籍 | 日本 |
| 出生地 | 甲斐国要害山城(現在の山梨県甲府市上積翠寺町) |
| 職業 | 武将、甲斐の守護大名・戦国大名 |
| 名言 | もう一押しこそ慎重になれ |
1521年12月1日、武田信玄は甲斐国守護・武田信虎(1494~1574)の嫡男として要害山城(現在の山梨県甲府市上積翠寺町)に生まれる。
信玄は14歳のときに元服。同年初陣を飾ったといわれる。
1541年、信玄が19歳のときに父・信虎を駿河に追放し、信玄は武田家の家督を相続する。
家督を相続した信玄は信濃諏訪領への侵攻を始める。1542年には諏訪領を制圧し、1550年には中信を支配下に置いた。
1553年、31歳の信玄は北信地方を除き信濃をほぼ平定。北信濃の戦国大名・村上義清らは越後国の上杉謙信(1530~1578)に救いを求める。
1553年、要請を受けた上杉謙信は信濃国に出陣し、武田方の諸城を攻め落とす。信玄は決戦を避けたため、謙信は越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。
その後も上杉謙信との北信濃の支配権を巡る川中島の戦いは続き、計5回、12年余りに及んだ。
1554年、信玄は相模国の北条氏康、駿河国の今川義元と甲相駿三国同盟を締結。
1560年、信玄が38歳のときに織田信長(1534~1582)が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る。三河では徳川家康(1543~1616)が独立。
1568年、室町幕府15代将軍・足利義昭(1537~1597)と織田信長が対立。義昭は信長を滅ぼすべく、信玄らの大名に信長討伐の御内書を発送。
1571年、49歳の信玄は織田信長の盟友である徳川家康を討つべく、遠江・三河に侵攻。諸城を落とすも信玄が血を吐いたため甲斐に帰還。
1572年、信玄は再び甲府を進発。三方ヶ原において家康と決戦し勝利。しかし、信玄の持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止。
1573年5月13日、武田信玄は甲斐に引き返す途中に死去、51年の生涯を閉じた。
Wikipedia(日本語) / Wikipedia(英語)
武田信玄の名言・格言集
【関連ページ】
・上杉謙信の名言・格言
・織田信長の名言・格言
・徳川家康の名言・格言
武田信玄の名言(1)
武将が陥りやすい三大失観。
一、分別あるものを悪人と見ること
一、遠慮あるものを臆病と見ること
一、軽躁なるものを勇剛と見ること
負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。
それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり。
渋柿は渋柿として使え。
継木をして甘くすることなど小細工である。
信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ。
人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じだ。
戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。
ただし二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。
勝ちすぎてはならない。
将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である。
自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。
この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ。
一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ。
これを一年にすれば、三百六十か条ものことを知ることになるのではないか。
もう一押しこそ慎重になれ。
いくら厳しい規則を作って、家臣に強制しても、大将がわがままな振る舞いをしていたのでは、規則などあってなきがごとしである。
人に規則を守らせるには、まず自身の言動を反省し、非があれば直ちに改める姿勢を強く持たねばならない。
晴信(信玄)が定めや法度以下において、違反しているようなことがあったなれば、身分の高い低いを問わず、目安(投書)をもって申すべし。
時と場合によって自らその覚悟をする。
我、人を使うにあらず。
その業を使うにあり。
大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である。
今後は、一人働きは無用である。
足軽を預かっていながら独りよがりの行動をとれば、組の者は組頭をなくし、味方の勝利を失うことになるからだ。
風林火山 –
疾(と)きこと風の如く、
徐(しず)かなること林の如く、
侵掠(しんりゃく)すること火の如く、
動かざること山の如し。
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武田信玄の本・関連書籍
狂乱の日々を送り、民に恨みの声をあげさせていた父・武田信虎を追放して甲斐の国の主となった信玄は、信濃の国に怒涛の進撃をはじめた。諏訪頼重を甲斐に幽閉し小笠原長時を塩尻峠に破り、さらに村上義清を砥石城に攻略する。信玄は天下統一を夢みて、京都に上ろうと志す。雄大な構想で描く歴史小説の第一巻
世評では、上杉謙信と比べると人気の面で武田信玄の分は悪い。海音寺潮五郎は武田信玄を嫌ったという。信玄嫌いの多くは、彼がとった父・信虎の追放、息子・義信殺し、諏訪頼重の殺害とその娘との婚姻などから、腹黒い人物との印象を持つからだろう。しかし、これは誤った信玄像である。実は信玄の思想と行動原理は、「孫子」の兵法と「孟子」の民本主義に貫かれている。決して権謀術数を弄する冷酷な人物などではない。信玄堤や甲州法度之次第に代表される治国や強兵策はのちに家康が手本としたほどである。本書は、あと数年命があったら信長に代わって間違いなく天下をとっていただろうといわれる武田信玄の人間像とその帝王学を、さまざまな角度から解説し戦国随一の名将でであることを実証するものである。
知略縦横の軍師として信玄に仕える山本勘助が、秘かに慕う信玄の側室由布姫。風林火山の旗のもと、川中島の合戦は目前に迫る……。
武田信玄の名言・言葉の一覧
| No. | 武田信玄の名言一覧 |
|---|---|
| 1 | 武将が陥りやすい三大失観。 一、分別あるものを悪人と見ること 一、遠慮あるものを臆病と見ること 一、軽躁なるものを勇剛と見ること |
| 2 | 負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり。 |
| 3 | 渋柿は渋柿として使え。継木をして甘くすることなど小細工である。 |
| 4 | 信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ。 |
| 5 | 人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じだ。 |
| 6 | 戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。ただし二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。勝ちすぎてはならない。将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である。 |
| 7 | 自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ。 |
| 8 | 一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ。これを一年にすれば、三百六十か条ものことを知ることになるのではないか。 |
| 9 | もう一押しこそ慎重になれ。 |
| 10 | いくら厳しい規則を作って、家臣に強制しても、大将がわがままな振る舞いをしていたのでは、規則などあってなきがごとしである。人に規則を守らせるには、まず自身の言動を反省し、非があれば直ちに改める姿勢を強く持たねばならない。 |
| 11 | 晴信(信玄)が定めや法度以下において、違反しているようなことがあったなれば、身分の高い低いを問わず、目安(投書)をもって申すべし。時と場合によって自らその覚悟をする。 |
| 12 | 我、人を使うにあらず。その業を使うにあり。 |
| 13 | 大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である。 |
| 14 | 今後は、一人働きは無用である。足軽を預かっていながら独りよがりの行動をとれば、組の者は組頭をなくし、味方の勝利を失うことになるからだ。 |
| 15 | 風林火山 - 疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し。 |
| 16 | 為せば成る 為さねば成らぬ成る業(わざ)を 成らぬと捨つる人のはかなき |
| 17 | 三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である。 |
| 18 | 勝敗は六分か七分勝てば良い。八分の勝ちはすでに危険であり、九分、十分の勝ちは大敗を招く下地となる。 |
| 19 | 戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず。 |
| 20 | 人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。 |
| 21 | 晴信(信玄)の弓矢は欲のためではなく、民百姓を安楽にするためだと民に知らせれば、わしが軍を進めるのを待ち望むようになる。 |
| 22 | 百人のうち九十九人に誉めらるるは、善き者にあらず。 |