西郷隆盛の名言・格言




西郷隆盛の名言・格言


西郷隆盛(1828年~1877年)

日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。大久保利通、木戸孝允とともに「維新の三傑」と称される。


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1828年、鹿児島城下、現在の鹿児島市加治屋町に下級藩士の長男として生まれる。少年時代に喧嘩の仲裁に入り、右腕の神経を刀で切られる。その怪我で刀が握れなくなり、学問で身を立てることを志す。

1854年、薩摩藩主、島津斉彬の御庭方役となり、島津斉彬から直接教えを受ける。1856年、第13代将軍・徳川家定と島津斉彬の養女・篤姫が結婚。島津斉彬の考えは、篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかり、露英仏などに対処しようとするもので、日中韓同盟をも視野にいれた壮大な計画であった。西郷隆盛はその手足となって活動。

1858年、島津斉彬は急逝。島津斉彬の弟、島津久光の子・忠義が家督相続し、島津久光が後見人となる。西郷隆盛は、殉死しようとするも僧・月照らに説得されて、島津斉彬の遺志を継ぐことを決意。

1866年、坂本龍馬の斡旋により、長州藩士、桂小五郎(木戸孝允)と薩長提携六ヶ条の密約を交わす(薩長同盟)。

1867年、徳川慶喜は大政奉還を建白。しかし、1868年に鳥羽・伏見にて旧幕府軍と薩摩藩との間で戦端が開かれ、戊辰戦争へと拡大。西郷隆盛は東海道先鋒軍の司令官に任じられると、箱根を占領。その後、江戸総攻撃の命令を受けて江戸に入る。江戸城総攻撃の直前に勝海舟と会談、徳川処分案を預かると総攻撃中止を命令し、無血開城が行なわれる。

その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。陸軍大将などを兼務。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、大久保利通らと対立。再び鹿児島に戻り、私学校での教育に専念する。

明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃。享年49歳。

Wikipedia(日本語版) / Wikipedia(英語版)



 

西郷隆盛の名言・格言集




西郷隆盛の名言(1)


名言・格言

 

間違いを改めるとき、

自ら間違っていたと気付けばそれでいい。

そのことを捨てて、

ただちに一歩を踏み出すべし。

間違いを悔しく思い、

取り繕うと心配することは、

たとえば茶碗を割り、

その欠けたものを

合わせてみるようなもので、

意味がないことである。

 

- 西郷隆盛 -


名言・格言

 

幾たびか辛酸を経て、

志ははじめて固まるものだ。

 

- 西郷隆盛 -


名言・格言

 

急速は事を破り、

寧耐は事を成す。

 
※寧耐(ねいたい)とは、心静かに落ちつきはらって、迫りくる困難や苦痛に耐えること。 

- 西郷隆盛 -


名言・格言

 

およそ思慮は平生、

黙座静思の際においてすべし。

 

- 西郷隆盛 -


名言・格言

 

己を尽くして人を咎めず。

我が誠の足らざるを常にたずぬるべし。

我を愛する心を以って人を愛せ。

自己を許すが如く人を許せ。

人を責めるが如く自己を責めよ。

 

- 西郷隆盛 -


名言・格言

 

命もいらず、

名もいらず、

官位も金もいらぬ人は、

始末に困るものなり。

この始末に困る人ならでは、

艱難(かんなん)をともにして

国家の大業は成し得られぬなり。

 

- 西郷隆盛 -


名言・格言

 

志を貫くためには、

玉となって砕けることを

本懐とすべきであって、

志を曲げて瓦となってまで、

生きながらえるのは恥とする。

 

- 西郷隆盛 -


名言・格言

 

功のあった人には禄を与えて、

能力のある人には位を与えよ

 

- 西郷隆盛 -


名言・格言

 

事に当たり、

思慮の乏しきを憂うることなかれ。

 

- 西郷隆盛 -


名言・格言

 

思い切ってやりなさい。

責任は私がとる。

 

- 西郷隆盛 -



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