大久保利通の名言・格言




大久保利通の名言・格言


大久保利通(1830年~1878年)

日本の武士(薩摩藩士)、政治家。西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」と称される。


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1830年、現在の鹿児島県鹿児島市に下級藩士の長男として生まれる。幼少期に加治屋町に移住し、下加治屋町で西郷隆盛らと共に学問を学び、親友・同志となる。胃が弱く武術は得意ではなかったが、討論や読書などの学問では抜きん出ていた。

1857年、西郷隆盛とともに薩摩藩の徒目付となり、また藩内組織・精忠組の長として活動。1858年、薩摩藩主の島津斉彬が急逝。斉彬の手足となって活動していた西郷隆盛も失脚。代わりに大久保利通が新藩主の実父・島津久光に接近し、側近となる。

1866年、江戸幕府の第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行なう。西郷隆盛らと雄藩会議を計画し、1867年5月に四侯会議を開催するも第15代将軍・徳川慶喜によって頓挫。以降、武力倒幕路線を指向する。その後、倒幕実行の直前まで持ち込むが、1867年11月に徳川慶喜が大政奉還を建白。

1868年、鳥羽・伏見にて旧幕府軍と薩摩藩との間で戦端が開かれ、戊辰戦争へと拡大。西郷隆盛と勝海舟との会談後、江戸城の無血開城が行なわれる。

明治維新後、大久保利通は参議に就任。版籍奉還、廃藩置県など、中央集権体制の確立を行う。1871年に岩倉使節団の副使として外遊。帰国後、朝鮮出兵を巡る征韓論論争で西郷隆盛や板垣退助らの征韓派と対立、西郷隆盛らを失脚させる。

1873年に内務省を設置。初代内務卿として実権を握ると学制や地租改正、徴兵令などを実施。富国強兵をスローガンとして国家の近代化を推進。

1877年(明治10年)、鹿児島の私学校生徒の暴動に端を発し、西郷隆盛を指導者とする西南戦争が起こる。大久保利通は京都から政府軍を指揮。西郷隆盛は敗れて、城山で自刃する。大久保利通は、西南戦争の翌年、石川県士族により紀尾井坂にて暗殺される。享年47歳。

大久保利通は、西南戦争前に西郷隆盛の参加を知り、西郷との会談のため鹿児島派遣を希望。しかし、殺害を危惧した伊藤博文らに朝議で反対される。西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていたという。大久保の暗殺時には、生前の西郷からの手紙を持っていたとされる。

Wikipedia(日本語版) / Wikipedia(英語版)



 

大久保利通の名言・格言集




大久保利通の名言(1)


名言・格言

 

彼は彼、

我は我でいこうよ

 

- 大久保利通 -


名言・格言

 

今日のままにして

瓦解せんよりは、

むしろ大英断に出て、

瓦解いたしたらんにしかず

 

- 大久保利通 -


名言・格言

 

この難を逃げ候こと

本懐にあらず

 

- 大久保利通 -


名言・格言

 

国家創業の折には、

難事は常に起こるものである。

そこに自分ひとりでも

国家を維持するほどの器がなければ、

つらさや苦しみを耐え忍んで、

志を成すことなど、

できはしない。

 

- 大久保利通 -


名言・格言

 

堅忍不抜

 

(座右の銘: 意志が強く、辛いこともじっと耐え忍んで心を動かさないこと)

 
- 大久保利通 -


名言・格言

 

目的を達成する為には

人間対人間のうじうじした関係に

沈みこんでいたら

物事は進まない。

そういうものを振り切って、

前に進む。

 

- 大久保利通 -


名言・格言

 

おはんの死と共に、

新しか日本がうまれる。

強か日本が…

 

(西郷隆盛死亡の報を受け、号泣しながら発した言葉)

 
- 大久保利通 -


名言・格言

 

自分ほど西郷隆盛を

知っている者はいない

 

- 大久保利通 -



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