我が輩は猫である – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Fung0131

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 38 「我が輩は猫である」

 
ネコは人間に対する意見を持っている。ほとんど何も言わないが、全部を聞かないほうがいいのは確かである。

Jerome K. Jerome (ジェローム・K・ジェローム 英国の小説家 / 1859~1927)
 

 ヒット作「ボートの三人男」で知られるイギリスの小説家ジェローム氏は、少年時代に相次いで両親を亡くし、肉体労働から俳優に至るまで様々な仕事を点々として苦労を重ねた後に、ユーモア小説が当たって幾つかのヒット作で著名になったと言われます。

 「苦労を重ねた」にも拘らず、「ユーモア」と言うのも不思議な感じがしますが、決してブラックではないところがジェローム氏の凄いところでしょうか。
 「ボートの三人男」は、ジェローム氏自身と二人の友人と、一頭のワン子が主人公ですから、必ずしも愛猫家ではないのでしょうか? 尤も、「ボートの上」というシチュエイションでは、猫よりは確かに犬の方が良い子にしているでしょうし、しっくり来ます。

 しかし、表題の言葉は、かなり猫を知っていると思われますし、良く猫を見つめて来た人なのであろうと思わされます。
 今回の「名言」は、当連載Vol.2でご紹介致しました、猫と人間の関係を鋭く描いた「家の中の虎」の著者:米作家・写真家のカール・.ヴァン・ヴェクテン氏の「犬は無遠慮だが猫は喋り過ぎない」という名言に少し似ています、またVol.6でご紹介しました、英小説家で童話研究者でもあったアンドリュー・ラング氏の「猫は寡黙に語らないが深く考えている」にも共通するところがあります。

 私たち愛猫家や猫と暮らしている人間は、毎日何回か
「今のあの表情は、一体何を考えているのだろう」と興味をそそられることや、

「まったく!何が言いたいんだい?」としか返答出来ないような
 猫の「懸命な訴え」に困惑することもあります。

 しかし、猫に限らず、私たちには、
 自分の親が自分をどう思っているのだろう?とか、子供が親である自分をどう思っているのであろう?や、友人や恋人や職場の上司や同僚にどう思われているのであろうか?
 というテーマは生涯付きまとって来るものです。

 これは度が過ぎれば「自意識過剰」ということになってしまいますが、
 必ずしもそういうことではなく、
 自分の感じ方や望みが果たして他者と共感出来るのであろうか?
 もし出来ないのであったらば、それは他者にとっては迷惑であろうし、共に何かをしようとしてもお互い心よりそれを充実出来ないかも知れない。
 などの気遣いや優しさかに根ざしている部分も少なくない筈です。

 ただ、人間は言葉というものを持ち、それは猫が幾ら幾つかの言葉が分かったり、
 私たちに語り掛けてくれたり。猫同士はもしかしたらテレパシーで会話をしているかも知れないとしても、

 「言葉」という道具であり、心であり、思考の依りどころであり、座標であるようなものを
 猫は人間ほどは持っていない筈です。
 難しく言えば「論理的な概念の道具としての言葉」は、おそらくあまり持っていないのでしょう。

 
 しかし、表題のジェローム氏もしかり、かつてご紹介した著名人もしかり、
 だからと言って猫が何も考えていないなんてことはあり得ない。むしろ実に深く考えている。と説いているのです。

 そして、「人間(家族・飼い主)に関すること」は、特に深く考えているようで、
 確かにもの凄く心配してくれてまるで母親のような心持ちの子も居れば、
 理想の恋人と思える程に分かろうとしてくれる子や分かってくれる子が少なく在りません。

 しかし、著名人たちに言わせると、
 「その全ては聞かない方が良い」ということのようなのです。

 確かにあの夏目漱石の愛猫で、
 「名前はまだ無い」と言い「吾輩」と自称する黒猫のように思われているのでは、
 聞かない方が身の為心の為かも知れません。
 
 
 また、猫は「道理」というものが良く分かっているようで、
 それは人間がその感性を大分失ってしまった「自然の摂理」を分かる力が強いからかも知れませんし、この連載でも何度かお話していますように
 「道に迷っても地理を把握している」からかも知れません。

 
 例えば昔、新しい彼女が出来た時にうきうきしていましたら、
 愛猫は浮かない表情なのです。
 ヤキモチ?かと思ったらそうでもないことは一年後に哀しく痛感するのです。

 猫に言わせれば「ああー、また同じパターンだ」「哀しいかな、よくも懲りない人だなぁ」 
 と始まる頃から分かって居たようなのです。

 どうも猫の思考回路からすると、私たち人間は「迷路的な思考回路」にハマることがしばしばあり、その様子が良く見えるようなのです。

 猫が道を迷わないのは、道など端からアテにしていないからでもありますが、
 私たちは、その思考法さえも「道に沿って」考えてしまいがちで、
 まるでレールに乗ったように、一旦その道を行くと、
 中々それから抜け出せずに結局同じ迷い方をしたり堂々巡りをしてしまうようで、
 猫にはそれが手に取るように分かるようなのです。

 
  「ならばどうすれば良いか教えてくれよ!」と言いたくなりますし、

 もし「猫占い」でもコンビを組んで出来れば、
 「君らのご飯代も全く心配なくなるぞ!」とも思うのですが……………..

 これも「道を行くことしか考えつかない」人間ならではの発想なのでしょう。

 「ああ、また迷路の道に入り込んだぞ」と言われた時に
 「じゃあ、どの道が正解なんだい?」と訊いてみたところで、

 「そもそも道を行こうってのが間違いなのさ」と返されるのがオチなのです。
 
 
 しかし、或る意味これは真実、もしくは極意なのかも知れません。
 尤もそう考えるのも人間だからなので、猫にとっては「当たり前のこと」なのでしょうが。

 猫より五倍は長く生きるとは言え、私たちにとっても掛け替えの無い時間。
 その時々だけの「歩み」の大切さを真剣に考えるのであるならば、
 「道無き道」を行く位の覚悟が必要なのかも知れません。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

自然の動画
仕事の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 我が輩は猫である – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

あるような無いような… 猫の生涯の目標とは – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: kellinahandbasket

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 37 「あるような無いような… 猫の生涯の目標とは」

 
目的地が大事なのではありません。景色の変化が大事なのです。

Brian Eno (ブライアン・イーノ 英国の作曲家、プロデューサー、音楽理論家 / 1948~)
 

 かなりの愛猫家として知られるブライアン・イーノの音楽は、Vol.31Vol.35でご紹介致しました「西洋クラッシック音楽の中の現代音楽」に括られるジョン・ケージからの流れに存在すると考えられます。

 より詳しく言いますならば、ジョン・ケージとイーノの間に、スティーブ・ライヒという音楽家を置き、イーノの後(先?)に、ルー・リード………デビット・ボウイ……と繋げてしまうと、クラッシックとロックの境目が無いグラデーションの世界が展望出来るのです。
 
 勿論、異論もありましょうが。それでも、緻密な理論を持ちながら、その上に既成の観念に捕われない実験的な音楽を重ねたこれらの音楽には、「楽しませる」とか「ファッショナブル」という次元を越えた「音楽の力の探求」のような一貫した一本の筋道があります。

 そして、上記の音楽家たちの繋がりは、実際事実のようであり、多分に影響を受け、それをそれぞれの土壌で発展開花させて来た人達の繋がりであることは事実です。
 
 これらの音楽家が皆「猫好き」か?というと、流石にそれは言い切れないようです。ジョン・ケージとブライアン・イーノの愛猫家ぶりは有名ですが、ルー・リードはむしろ愛犬家で有名。
 ところが親交もあり、大いに影響し合ったと言われるデビット・ボウイのアルバムデザインを担当した猫好きのデザイナー氏には「ルー」という愛猫が居て、なんとルー・リードが死んだ日にスタジオにひょっこり現れたと言い、デザイナー氏は「生まれ変わりに違いない」と信じているそうです。
 系譜をジョン・ケージの前に辿れば、サティー、ドビュッシー、ラベル……という愛猫家が居ますから、「猫の生まれ変わり」や「猫の想いが乗り移った?」も含めると、本人が猫好きを自覚していなくても、何らかの「流れ」があるのかも知れません。

 
 愛猫家ブライアン・イーノの表題の言葉を額面通り受け止めると、「忙しく目的地に急ぐのではなく、のんびり散歩気分が良いね」と言っているように読めます。確かにそれは、当たり前のようでいてとても大事なことです。

 約束事や仕事に遅刻しまい!と道を急ぎ、季節の移り変わりや風の香りを感じる間もなく通り過ぎてしまう。当然、捨て子猫のSOSの小声も聞き漏らしてしまう。それは実際の毎日の通勤の様子のことではなく、それぞれの人のそれぞれの時代のことでもあるかも知れません。

 子どもの頃は、学校に行くにも、家に帰るにも、だらだら散歩のように歩き、しばしば道草や寄り道をしたものです。しかし、道中の発見や学びは、時に学校の授業よりも大きな学びとして深く心に刻まれ、改めて思い返すことがなくとも、多くの人々のその後の人生にも深く関わっているに違いありません。

 
 逆に言えば、半生を振りかえってみて、「無駄なことばかりした」とか、「回り道だった」と反省することもありましょうが、「散歩」だと思えば、何一つ無駄なこともなく、全ての記憶や体験が、学びとして再消化吸収されるかも知れません。

 しかし、忙しい道中であっても、景色や季節の移り変わりを眼は確かに見ている筈でも、ほとんど記憶していなければそれはとても残念なことです。何故ならば、家の玄関を開け、職場の部屋に辿り着く、及びその逆の、道中の景色や面白い珍しいことや、今まで出逢ったことがないものなどの記憶が無いということは、猫型ロボットの「何処でもドア」で、「自分の家のドアを開けたら、もうそこは職場の部屋」のようなものです。人生も半生も、高校時代とか、大学時代とかも、振り返れば皆「何処でもドア」であったとしたら…………..。
「常に目的に向かって脇目も振らず真直ぐ猛進していた」と言うと、素敵な気もしますが。やはりそれは哀しいことではないでしょうか。

 そういう意味合いで表題の言葉を理解すると、「流石ブライアン・イーノさん、本当に猫好きなんですね!」と感動致します。何故ならば、表題の言葉は、当連載のVol.3で、我が家の猫とスヌーピーの作者が言った同じ言葉「猫は道に迷わない」に深く関わる、言わば「対句」のようなものだからです。

 「猫は気ままのプロだから」「(野良猫や半外飼いは)散歩と昼寝が仕事だから」と言われてしまえばそれまでですが。
 大きな目標。しかし「大まかな目標」と言い換えることも出来る目標や予定に従って獣道を歩き出す。でも、ほとんど「道草、寄り道、散歩」のようですから、色々なことに気づき、発見し、学んでいる。だから短期間でその地域(エリア)を俯瞰出来、犬や猫嫌いの人間に阻まれたとしても道に迷うことがない。地理を知っていますから、初めてのルートでも家に帰って来れる。

 
 もし猫が人間のすることが何でも出来、音楽家を志したとしたら。「世界に通用する有名なクラッシックの音楽家になるぞ!」とか「売れっ子ロック・ミュージシャンになって見せる!」などと言う「目標」は建てないに違いありません。

 その代わり、もしかしたら一生掛かっても辿り着かないような大まかな目標、例えば「音楽とは何か?を極める!」などはきっとしっかりあって、決して忘れないことでしょう。でも、それはクラッシックとかジャズとかロックというようなものではない。

 音楽評論家や、ジャンルにこだわるマニアには、「スタイル、ポリシー、ファッションに統一性が無い!」「あんなもの○○じゃない!」「伝統の破壊者だ!」「ただ珍しさで一時目だっているだけだ」などなどと酷評を受けること間違いない。
 ところが、何年もやっているうちに、音楽ファンも評論家もけなせない「何か」を作り出している。
 
 
 そう。ジョン・ケージ、スティーブ・ライヒ、ルー・リード……… 
 そして、ブライアン・イーノなど、既成の観念やジャンル、様式に捕われずに新しい、しかし、後の人々に確かに継承される音楽を創り出した人々は皆、
 「道無き道」「音楽の獣道」を歩んで来た人たちなのでしょう。

 
 彼らにとっては、「既成の観念やジャンル、様式」に沿うことや辿り着くことよりも、そのことで、景色や季節や見知らぬ出来事を見損なう学び損なうことの方が大問題だったのでしょう。 

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

かわいい動物の動画
おもしろい動画


Posted in 猫の名言 | タグ | あるような無いような… 猫の生涯の目標とは – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

人間は猫に生まれ変われるか? – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Kristine Paulus

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 36 「人間は猫に生まれ変われるか?」

 
この世でどう猫に接したかで、天国でのステイタスが決まる。

Robert A. Heinlein (ロバート・A・ハインライン 米国のSF作家 / 1907~1988)
 

 皆さまのご愛読の御陰で、この連載も随分回を重ねることが出来ました。そして、少しずつ「猫に関する名言」のネット上でのステイタスも上がって来ているようです。ありがとうございます。

 ところが、猫好きで知られる著名なSF作家のハインライン氏がおっしゃる言葉は、今回まで35回ご紹介して来ました「猫に関する名言」「愛猫家ならではの猫的発想の名言」の中で、極めて異色で異例な名言であると言えましょう。
 何故ならば、当の猫は、およそ「ステイタス」というものに縁が無い生き方であり、感覚の持ち主であるからです。

 ステイタスの意味を辞書通りの「身分、社会的地位、共同体や組織に置ける立ち位置、存在感、象徴的な立場」とするならば。「猫にはその感覚が無い」と言う以前に、犬の方が遥かにその感覚に長けており、敏感です。

 よく世のおじさん連中がぼやく哀しい言葉に、「家に帰っても、嫁さんと子どもの世界で、俺の居場所が無い」があります。
 それでも何十年家族の為に汗して働き、堪え難きを絶え頑張って来て、ようやく無事に子どもたちを送り出し夫婦ふたりっきりも淋しいと、ペット=犬を飼うことにした。そしたらなんと。
 「ところが、その犬は、どうもカミさんが家で一番偉く、その次が自分で、この俺はその下であると思っているらしい」などという言葉もけっこう良く聞きます。斯様に、犬は「ステイタス」というものを重視しているのです。
 

 犬や猫に、人間社会のしがらみや、職場での気遣い、生業ということの大変さを理解して貰おうと考えても無駄なのかも知れません。
 TVドラマなどで、「お父さんが働く姿を見て、子どもが改めて感謝し、尊敬に繋がった」などという場面がありますが、愛犬や愛猫を職場に連れて行って働く姿を見せても、果たして何を理解してくれるでしょうか? 

 そもそも、日々、愛猫の為にご飯を用意し、トイレを掃除し、具合が悪ければ薬を飲ませ「嫌!」と言われればご飯にまぶし……….とこんなに尽くしているというのに。

 その点では「わん子は偉い!」
 お父さんの職場での働きは知らないけれど、お母さんの大変さはちゃんと理解して、感謝と尊敬を抱く。
 例えば、「僕ら犬は、缶詰には歯が立たないが、お母さんは見事に缶を開けてくれる。凄い!」と思ってくれる。だから「お母さんが一番!で、僕が二番!あのおじさんは僕の下」となる。

 序列意識の為とは言え、人間の努力や尽力を理解してくれる。
 もしかしたら、ワン子は職場に連れて行けば考えを改めるかも知れない……..。

 ところが猫は、「そんなに急かすなら自分で缶詰を開けてみろよ!」と差し出したところで、その有り難みが分からず、「何これ!これじゃ食べられないじゃん!」と怒り出す。

 もしかしたら猫は、数千年前、山猫から家猫になった時に「しかたがないから人間と一緒に居てやろう」「本当は自分の食いぶち位自分で狩りが出来るんだが」「それをしない代わりに、君ら人間がしっかり喰わせろよ!」と約束をして、全ての猫がその約束のことを知っているのかも知れません。

 しかしいずれにしても、感謝を感じるかどうか?とか、尊敬するかどうか? に拘らず、それが「序列」に関係して来るというのは、やはり犬には本来「群棲=社会性」の感覚があり、猫には無い。ということに尽きる訳です。

 
 そんな猫の話しなのに、表題の名言でテーマが「ステイタス」というのも、矛盾ではないにしても切ない話しです。そもそも人間は、「天国では皆平等=魂は皆平等」と言われて「それを聞いてホッとした」と思っていたのに違うのか? 

 確かに、「肉体の死と共に魂も滅びる」とは考えない、ヒンドゥー教や仏教などの教えでは、「今生の努力、精進」によって「徳」を積めば、次の生まれ変わりのステージも上がると言われています。

 なので、表題のハインラインさんの言葉に於ける「ステイタス」というのは、この世の社会性に於ける「身分や地位」のようなものではなく、「徳」のことなのでしょう。
 もしかしたら、基本的に輪廻を信じないとされる欧米圏には、「徳」を直訳する言葉が無いのかも知れません。

 
 つまり、この世でどんなに高い身分であろうとも、天国では皆身分は同じ。しかし、次に生まれ変わる時になって、その「徳」が問われ。「はい!元大会社の社長さん!」「貴方は前世で人をこき使って利己ばかりでしたから『徳』が足りません!」「なので、来世は蟻んこです!」「しっかり下働きしなさい!」となるのかも知れません。

 一方、一説によると「徳」の評価によって、前世と来世で負わされる苦労の度合いは異なるようですが、「猫は猫にしか生まれ変わらない」とも言われます。それは、そもそも猫がとても「徳」が高い生き物であるからだ、と言います。
 そして、哀しいことに、「人間は、幾ら徳を積んでも猫に生まれ変わることは出来ない」とも言われます。

 もし、これらが皆本当のことだったら………….。
 ハインラインさんのおっしゃることはかなり「なるほど!」という話しにも思えます。勿論、お得意の「SF感覚」かも知れませんが。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

星・宇宙の動画
人間関係の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 人間は猫に生まれ変われるか? – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

猫と語り合うこと – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Krzysztof Belczyński

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 35 「猫と語り合うこと」

 
伝えるのではなく、語り合い、話し合うのです。伝達するということは、常に何かを押し付けることです。しかし会話の中では、押し付けられるものは何もない。

John Cage (ジョン・ケージ 米国の音楽家、作曲家、詩人、思想家 / 1912~1992)
 

 先のVol.31でもご紹介致しました、西洋クラッシックの現代音楽の巨匠で、愛猫家で知られるジョン・ケージ氏の再登場です。
 Vol.31のケージ氏の言葉は、人間の場合、異なる感情や物事に対する異なる価値観や判断があるからこそ「対話」が成り立つと説き、その一方で、お互いがもし何も所有しなくなった時、そこには「詩」が在る、と語っていました。

 クラッシック音楽の既成の観念をことごとく破壊してみせながら、おそらくそれから数10年経った今日でさえ、私たちがまた完全には理解出来ずその価値観に到達出来ていないような斬新な芸術を提唱したジョンケージ。流石にその文言は、彼ならではの謎めいた雰囲気と、深い示唆に富むものであると感嘆させられます。

 しかし本日のお言葉は、比較的分かり易いと言いましょうか、ケージ氏にしては素直に言ってくれている、と思わされます。
 表題の文言は、ほぼ額面通りに受け止めて何の問題も無いように思います。

 そもそも、本日の表題のテーマに於いて、回りくどかったり裏の意味があるのでは、全くテーマにそぐわないと言えます。
 その意味では流石のジョン・ケージ。あの時代に有りがちな奇異な問い掛けをし、答えを薮の中に紛らわしてしまうことが芸術のような人とは異なり、ストレートに伝えるべき時は実に素直に言ってくれるのです。

 とは言っても、あまりにそのまま額面通りに捕らえるだけでは、私たちの日々の生活の中に応用することが出来ません。よって、文言の中のより本質的な「何か」を見出さないことには、聞き流してしまったことと同じになってしまうとも言えます。

 そう思って読み返してみると。50年近く音楽を生業にして来た私にとって、表題の文言は、けっこう「耳に痛い」ものがあります。しかもそれを大音楽家に言われてしまうと、尚更です。

 
 私たち音楽家は「音楽には、何らかのメッセージ性を持たせるべきだ」と勘違いする時期が必ずあります。勿論生涯その勘違いを貫く人も少なくないですし、リスナーさんでもそう思い込んだままの人も多いかも知れません。また、そういう音楽を「メッセージ・ソング」とか「メッセージ音楽」として一種のジャンルであると理解することは可能でしょう。しかし、その場合、「それ以外の音楽の存在」も同時に分かって下さる必要があることは言うまでもありません。

 何故ならば、喩えば「絵」と言えば「塗り絵」しか知らない人が居たとして、その人に「白い紙と絵の具」を渡したとしても何の意味も生じないことと同じで、「メッセージでは無い音楽」に対し「つまらない」「意味が分からない」となってしまうだろうからです。

 
 音楽家には、そのような段階があると共に、「作曲された音楽」を如何にその時々見事に生き返らせるか?に心や命を注いでいるタイプもあれば、「その時々の統べてのこと」を即興音楽としてその場で創造することを主にしているタイプも居ます
 私の専門の民族音楽の場合、この二つのタイプが入り交じっていることが基本です。つまり基の音楽そのものが即興を加える要素がとても多いのです。なので、仮に楽譜があったとしても「フォルテだピアノだ」「段々に早く」などの指定は全くありません。

 
 それでも私は長年即興演奏は、自分の感性の中から迸ってくるものと勘違いしていました。そうではなく、その場に漂う全てのことから自然に導き出され、音楽家はそれを聴く人の耳と心に届ける「案内人」のようなものである、と気づいたのは、恥ずかしながら最近のことです。
 
 そう気づくことが出来たのも、やはり猫の御陰です。

 とは言っても、猫にもタイプと段階があります。段階は、幼猫から若猫(7~8歳)までの間は、物事に対して直感的に反応することが主で、私たち人間との会話も、それらから生じた欲求をひたすら訴えるばかりという感じです。そして「何で分かってくれないの! もういい!ふん!」みたいな時の方が多いという段階です。
 それが8歳を過ぎて大人に成ると、人間に換算すると既に中年の域ですが、人間の言葉をしみじみ聞けるようになってきます。そんな時、「兄弟や両親を大事にして良い子だったね」とか、「子どもたちを一生懸命に育てたね」などの昔の偉かった話しをすると、じっと聞き入って目を細めたりします。

 猫は、わりと同じ話しを何度でも聞きたがるような気がします。人間ですと「またその話し?」と嫌がりますが、猫の場合、単に膝の上に居たいだけでなく、話しを聞きたいと思った時には、膝の上で顔を持ち上げて「ねえ!ねえ!あのお話して!」と強請ります。
 勿論科学的に言うならば、話しの中身というよりは、人間が優しい気持ちで語る事が「心が撫でられたような」気がするのでしょうけれど。

 でも、ある時同じような優しい口調で、目の前のパソコン画面の政治のニュースのようなものを心を込めて読んで聞かせましたところ。「ふん!つまんない」と直ぐ膝を降りて何処かに行ってしまいましたから、話しの中身も大切なのかも知れません。

 勿論「聞き上手の猫」も居れば「話し上手の猫」も居て、若い頃から話しを聞くことの方が好きな猫も居ます。でも、そんな子が言葉少なく何かを言う時、それを理解するのはとても大変で、「うぎゅっ」の一言だったりしますから、猫との会話は、禅問答より難しいとさえ思えます。

 もしかしたら猫との会話は、その場その時のキャッチボールではなくて、十年掛かりの壮大なものなのかも知れません。だとしたら、猫が小さい時、「なんだよ!訳が分からない!うるさいなぁ!ご飯は食べたでしょ!」ではなく、それをたっぷり聞いてあげて、数年後大人になった時に、ゆっくり返答してあげるのが一番なのかも知れません。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

自然の動画
人間関係の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 猫と語り合うこと – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

猫と弁護士の深い関係 – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Manel

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 34 「猫と弁護士の深い関係」

 
犬はリベラリストのようなもので、すべての人を喜ばせようとする。猫は、みんなが自分を愛していることを知ろうともしない。

William Kunstler (ウィリアム・クンスラー 米国の弁護士 / 1919~1995)
 

 愛猫家の中には、意外に政治・思想活動家が少なくありません。本連載コラムでもご紹介致しました、Vol.9の英首相チャーチル、Vol.15のリンカーン(共和党)の他にも米大統領には、Th.ルーズベルト(共)、ジェファーソン(民主党)、フォード(共)、ブッシュ(共)、クリントン(民)が猫好きで知られ、その他、エリザベス一世、マリー・アントワネット、ナイチンゲール、レーニンなどなど。
 もちろん、圧倒的に愛猫家が多い芸術家、文筆家、発明家、科学者といった、言わば「引きこもり系」とは比べものになりませんが、意外さから言えば「多い!」と思わざるを得ません。

 何故ならば、「独立性の猫」と「引き蘢り」は相性が良いでしょうけれど、「政治家・活動家」のように、圧倒的な数の人間と接する人々は、極めて「社会的=群棲に適している」と考えられるからです。実際、「政治家・活動家」の中には、「愛犬家」の方が多い印象です。
 そんな人たちの中には、若い頃から仲間や友人に囲まれる「人気者」で、場合によっては「ボス的存在」という人が多く、「人心掌握」の天性の才能を持ち、どこかでそれを社会貢献に発揮することを「使命」と考えていたような人物が多く見られます。その一方で、同じ才能を逆の意識で活用してしまった愛犬家にはナポレオン、ヒトラー、ムッソリーニが居ます。

 その一方で、「指導者は常に孤独である」という言葉があります。偉くなればなるほど、昔の友人とも隔たりが出来てしまい、側近は皆部下のような存在、という分かり易い理由の他に、国民=民衆は、「大衆心理・群集心理」という言葉があるように、ひとつの大きな塊のように感じられるのではないでしょうか?
 そして、指導者は、常に先を考えていなければならず。最終的には全ての責任を背負った決断を下さねばならない。時には自分自身の心に反することであろうとも。などなどを含めますと、「群れの頂点」にありながら、孤高の立場なのかも知れません。

 愛猫家としても知られるウィリアム・クンスラーは、白人敏腕弁護士として、アメリカの公民権運動に大きな功績を為した人物で、その弁護は、黒人人権運動家のキング牧師、マルコムX、ネイティヴ・アメリカンたちの訴訟に始まり、民主党大会暴動事件(1968)の主犯格から、第35代大統領:ケネディー(民主党)暗殺に関与したとされる人物までを担当しているのです。

 なので、表題の犬と猫の話しに「リベラル」という、政治・思想用語が登場する訳なのです。普通、同じようなこと「すべての人を喜ばせようとする」を言うのであるならば、「芸人、コメディアン」が真っ先に浮かぶ喩えであるはずです。

 
 それにしてもクンスラーの幾分過激な華々しい経歴を、アメリカの政治家や政治に関心の高い一般人はどう見ていたのでしょうか? 極端な白人優位主義の人々やキリスト教右派と呼ばれるような人々は、「白人でありながら黒人、イスラム教徒、インディアン、コミュニストの味方をしやがって!」と言ったに違いありません。つまり単純な極論をすれば、保守派・キリスト教系の共和党共鳴者には大いに嫌われただろう、ということです。

 ならば、リベラル=民主党の支持者・共鳴者には好かれたであろう、ということになるのですが、実際、民主党の敵である容疑者を弁護し、ひとつは勝訴にも至っているのです。当然民主党側からも嫌われる。これでは前述の「孤高の存在」ではなく、まるでイソップ寓話のコウモリ。わざわざ嫌われているようなものです。

 しかし、考えようによっては彼のような人間こそ「ニュートラル」であるとも言えます。どっちつかずの「日和見」としての「中道」ではなく、頑に「どっちにもなびかない」という「中道=ニュートラル」というのでもなく。
「右にも左にもなれて」「右の精神性で左で活躍」「左の精神性で右で活躍」のように、「どっちでもない」ではなくて、「どっちでもある」なのです。これこそが「真のニュートラル」ではないでしょうか。
 そして、その時々の弱者や正義の為に、「どっちにもなれる」という極めて「ブレない」その頑強な精神性。それがクンスラーの正体なのではないでしょうか? 

 
 だとすれば、彼こそは「究極の孤高」を貫き通した人物と言えます。また、対立の双方を深く分かっていないと本当の意味では「正しい弁護」は出来ないのかも知れません。その意味では「弁護士の鑑」でもあったとさえ言えましょう。そして何故か「愛猫家」であった。
 
 犬を揶揄した彼の言葉には、「リベラリストは大衆迎合的である」という皮肉が込められているようにも思えます。また、彼が弁護を担当した人権運動家もまた、悪く言って「大衆煽動の技に長けている」という意味では、クンスラーから見れば「犬的」なのかも知れません。何しろ猫は、「好かれていることなど無関心」だというのですから、回りがどんなに評価し持ち上げようとも「リーダー」にはなろうとしないに違いないのです。
 
 尤も、「最高の弁護士」のように前述致しましたが、案外クライアントの評価は低かったかも知れません。クライアントの主張や権利が認められることが、社会のバランスに於いて重要であった場合は、見事勝利を勝ち取りクライアントからも絶賛されたに違いありません。が、そうでもない場合。クンスラーは「全てのクライアントから喜ばれる(依頼人の利益最優先)の弁護士」ではなかったであろうからです。なにしろ「大衆迎合」に対する批判精神は旺盛な様子ですし。

 加えてクンスラーを語る文言に頻繁に用いられる「独特な風貌」もまた、「薮睨み」「晩年のアインシュタイン、シュバイツァー(共に愛猫家)にも似たボサボサ頭」には、厳しさや独善的なプライドの高さも感じられ、どうみても単純な「庶民の味方」「弱者の味方」という感じではなさそうです。「助けてくれるかと思ったら、逆に説教された!」も多かったのでは? 
 
 とは言え、きっとクンスラーもまた猫同様に、「孤独から逃げはしないが、孤独を好んでいた訳ではない」のでしょう。
 なので、あまりに回りに理解されず、誹謗中傷の嵐の中では、「ふっ」と虚しさに暮れたかも知れません。そんな時、愛猫に目をやって「お前は大したもんだね」「人にどう思われているなんて、全く気にも留めていないのだろう」「それどころかこんなに愛されているというのに」と、二重の意味での羨ましさも含め、しみじみと思った時にこの言葉が思いついたのかも知れません。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

かわいい動物の動画
仕事の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 猫と弁護士の深い関係 – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

猫は人を詩人にさせる – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Martyn Fletcher

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 33 「猫は人を詩人にさせる」

 
犬は散文であり、猫は詩である

Jean Burden (ジーン・バーデン 米国の詩人 / 1914~2008)
 

 前回、Vol.32で紹介しましたジャン・コクトーの表題の名言は、初め、著名な詩人でもあったにしては「随分長ったらしい言葉だな」と思いました。
 しかし、よくよく読んで考えてみると、その才能と心と情熱と時代の奴隷のようだった波瀾万丈の人生から生まれたひとつひとつの想いは、あの長さでも語り切れないものがあるのだろう、と思い直した訳です。

 それと同時に、「詩というよりは散文? むしろ説明文?」と初め思ったその文言のそれぞれの言葉には、考えれば考える程深くなってゆく奥行きがあることに気づいたのです。そう考えると、コクトーの名言は、長くとも「詩」なのかも知れません。

 このことで私は、今迄「詩」というものは、読み手が様々な想いを巡らせる「行間」が命なのだ、と理解していた観念を改めるに至ったのです。
 今迄は、多くを語らないことによって、読み手それぞれの人生観や感性、価値観を反映させた解釈が許される余地があることが「詩の力=普遍性」と考えていたのです。もちろんこれは、「詩」の代表的な姿のひとつなのでしょう。

 ところが、ジャン・コクトーによって、「詩」には、もうひとつの形、在り方、そして「力」があることを知らされるのです。それは、読み手それぞれの興味関心や共感によって、如何様にも深く読むことが出来、意味も重みも変わって来る「言葉の奥行き」だったのです。
 そしてそれは、読む毎により深くなって行き、まるで無限の言葉のトンネルのようであり、無尽蔵の気づき・閃きの宝庫のようでもあるのです。
 

 表題の米詩人の言葉は、実際は、どうも会話の一節のようでもあります。原文を別な訳し方にすると「犬はね! 何時も私が言ってるでしょ!散文なのよ」「猫は詩よ!」の感じです。つまり、詩人としての彼女の作品ということではなさそうなのです。その根拠は、フランスの諺に既に似たような「犬は、見事な散文であろう」「しかし,猫に限っては詩なのである」というものがあるからとも言われます。

 もちろんこれらは「散文と詩」「犬と猫」のどちらが高尚であるか? とか、美しいか?好むべきか?を論じているものではありません。むしろ逆なのでしょう。

 何故ならば、この連載でご紹介した言葉にもありますが、犬と猫を対比させた名言には、あからさまに猫賛美で犬を小馬鹿にしているものが少なくありません。が、表題の言葉や、おそらくその原典であろう諺には、そのような優劣は語られていないのです。
 最も近しい言葉が、当連載のVol.2でご紹介しました「犬は正直だが、無遠慮」「猫は余計なことを語り過ぎない」(米作家・写真家:ヴェクテン)でしょうか? なんとなく、猫の聡明さが言いたいようにも思えますが、正に「犬は散文、猫は詩」を意味しているとも理解出来ます。

 しかし実際、私たち愛猫家から、猫と暮らしていなくても「何となく猫が好き」という人に至る迄、「猫という詩」は、様々な存在感と距離感を持っています。

 例えば、野良猫と「通りすがりの関係」でしかない場合、その表情や仕種を見て、私たちは勝手な推測や物語を想像することが出来ます。
 
 「元気かい?」「しばらく見なかったけれど、病気か怪我でもしてたんじゃないだろうね?」「ライバルでも現れたかい?」「テリトリーは安泰かい?」と語りかけてみたり。警戒心や敵愾心の度合い。もしくは、何となく「甘えてみたい」ような素振りで、野良たちの生い立ちについても、あれこれ想像を巡らせたりします。

 自転車の籠に入れたDry-Foodを喜んで直ぐ食べてくれたりすると、嬉しくも「ほっ」とするのですが、ある意味Foodは、そんな「勝手な想像」の謝礼のようでもあります。

 ところが何年かそんな気楽な付き合いをしていて、これからもずっと末永くそれが続くと思っていた或る日。実際は、野良の平均寿命は、家猫の五分の一もない三年と言われますから、都合の良い楽観であることを思い知らされるのです。
 堅く固まった亡骸を拾い上げ、我が家の庭に埋めたことも二度程あります。

 怪我で一本の足が地に着かなかったり、少し歩いてぐったり横たわったりすると。それでも薮や家の影から出て来てくれたいじらしさも手伝って、どうにも保護せざるを得ない想いに駆られてしまうのです。

 そうして「我が家の一員」になった途端。その「詩」は最早「行間を勝手に楽しむ」ものではなくなってしまうのです。

 その表情や、短く返してくれる言葉から、より多くの、より本当の意味や答えを知ろうと必死にならざるを得ないのです。
 
 
 何処か具合が悪いのか? ご飯の味が気に入らないのか?に始まり。
 たくさん語りかけてくれるのは、心を許した証なのか? それとも何かを必死に伝えているのか? 家族になって嬉しくて感謝してくれているのか? 逆に「野良に戻せ!」の訴えなのか…………..

 そんなことを何年も、何頭もくり返し経験して行くと。何時だって「まだまだだ」と思いながらも、かつてよりは随分と分かるようになるものです。

 
 前にも申し上げましたが。私は長年犬とも暮らしていました。確かに、犬は分かり易い。尻尾を大きく振ってくれますし。表情も猫よりはっきりしている。猫が尻尾を振る時は、全く逆の意味の場合もありますから困ったもんです。
 
 
 でも、全てのことを考え合わせるに、「散文も犬も」「詩も猫も」。読み手の勝手な解釈の遊びの為ではないのかも知れません。

 犬も猫も私たちに必死に何かを伝えたくて努力し。分かってもらいたくてしかたがなく。同じように、散文を書く者も、詩人もまた。どう表現したらより伝わるか?を懸命に模索しているのです。
 それは手作業の技術者が、より精工で丈夫な物を目指すことと同じに。料理人が、素材の命をより多く活かしながら、受け手の喜びをより多く引き出そうと努めることと同じに。日夜必死に研鑽しているのです。

 
 しかし、私も含め人間は、「受け手」になった途端に、幾分身勝手になってしまうのでしょう。「今日は長い文章(散文)は頭に入らない」「そう!こんな心地よい言葉(詩)が一番良いね!」などと。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

かわいい動物の動画
人間関係の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 猫は人を詩人にさせる – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

犬は人に着き、猫は家に着く – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Jason Trbovich

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 32 「犬は人に着き、猫は家に着く」

 
家族同様に暮らして行くうちに、猫は次第に家庭の中心的存在になってくる。この愛らしくも不思議な動物は、生き生きとした静けさを醸し出し、王の様な気品を漂わせながら悠然と我々の間を歩き回り、自分にとっておもしろそうなもの、楽しそうなものを見つけた時のみ足を止める。

Jean Cocteau (ジャン・コクトー フランスの芸術家 / 1889~1963)
 

 ジャン・コクトーは、19世紀初頭のフランス文化人を代表する一人で、その肩書きは、詩人、小説家、劇作家、評論家、画家、映画監督、脚本家という驚くべき多才ぶりです。

 19世紀中葉から第二次世界大戦最中まで、セーヌ右岸の丘モンマルトルから、セーヌ左岸、そしてソルボンヌ大学周辺と拠点を替えながらも続いていた芸術家たちの元祖異業種交流の夕べで、ジャン・コクトーは、モンマルトル時代の花形的存在でもありました。

 モンマルトルでは、コクトーの他に、ゴッホ、ロートレック、ピカソなどが夜な夜なグラスを傾けながら芸術談義を戦わせ、「はっ!」と閃いてはアトリエに飛んで帰り創作する。かと思えば、芸術談義が盛り上がり過ぎたり、閃きでその場で何かをしでかした。そんな「夜の閃き(Night Science)」の姿を人々は、「アンコエラン(支離滅裂な人々)」と称したと言います。

 モンマルトルのアジトは、二三の「カフェ・コンセール(音楽喫茶)」だったと言われますが、いわゆる「キャバレー」のようであったらしく、そのひとつ、愛猫家でもある画家:スタンランの描いたポスターで有名な「シャノアール(その名も黒猫)」では、ドビュッシーやラベルとも親交のあった奇才ピアニスト(作曲家):エリック・サティがピアノを弾いていた時期もあったと言います。

 コクトーは、サティー、スタンランとも親交が深く、彼らを通じてシュールレアリズム、ダダイズムの詩人、芸術家とも面識があったらしいですが、コクトー自身はそれらと共に括られることを嫌ったり、批判・対立さえしていたとも言われます。

 「良き時代であった」と言ってしまえばそれまでですが、その多才ぶりから派手な交遊ぶりを聞かされると、コクトーは、正に自由奔放、自身の才能と時代に溺れるように暴れ回ったイメージが浮かんで来ます。そのイメージは、愛猫家の芸術家に多く感じられる、言わば「引き蘢り」的で孤独で苦しい創作活動とは、いささかかけ離れた感じさえ抱かされます。
 
 ところが私は、コクトーの表題の言葉に意外な一面を垣間みました。

 表題の言葉は、名言の類いとしては何だか長ったらしく。しかも何度読んでも「当たり前?」な感じがして深みも味もない、単なる「猫馬鹿?」な言葉のようにも思えます。が、決め手は冒頭の「家族同様」と後半の「我々の間」なのです。

 コクトーの浮き名に関しては、数多の謎多き妖女、伯爵夫人、はたまた俳優(男性)まで枚挙に暇がありません。人生の最期に至っては、まるで後を追うように、大ファンで親友でもあった歌手エディット・ピアフの死の直後に心臓マヒで逝ってしまった程です。そんなコクトーが「家族・我々」と言ったとしても「一体何時の誰とのことなのか? 」というほど果てしない話しです。

 しかし、人間とは切なくも矛盾多き生き物です。それが「当たり前のこと」だったら、わざわざ語らないに違いないのです。

 派手な交遊・芸術家との閃きの日々から考えれば、コクトーは決して猫のような「単独性」ではなかったようにさえ思えます。しかし、心はむしろ何時でも孤独だったのではないでしょうか。

 そんなコクトーの内面を感じさせてくれる言葉がありました。
 
 自分の家が大好きだからネコが好きだ。
       しばらくしたらその二つは見える魂になる。

 もちろん、コクトーの表題の言葉の「家族・我々」は、人間の愛する誰かとの温かくも安らぐ一時を言っているに違いありません。が、それらはいずれも長くは続かなかった。それはコクトーが、自分自身でさえ持て余すかのように止めども無く沸き上がる創作意欲と同じに、ただただ無性に人間に対して生じる非凡な感情のせいに違いありません。もちろん、そんなコクトーと心を通わすお相手も、同様の烈しい性格の持ち主だったのでしょう。
 
 如何に反動的に強く願い求めても、普通の平凡な日々は送れない性質なのです。

 それどころか、コクトーは、まるで猫のように時を愛し、心を愛し、魂を愛し、取り憑かれたような創作と、その使命感に身を捧げた人物だったのではないでしょうか。
 
 しかしコクトーは、猫のような「生き生きとした静けさ」、「静かな躍動」は、実践出来なかった。その言葉には、強い憧れの気持ちが感じられます。その意味では彼もまた、時代の犠牲者であり、才能の犠牲者だったのかも知れません。
 
 しみじみと語ったふたつめの言葉には、そんな彼のもうひとつの姿と想いが感じられるような気がします。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

かわいい動物の動画
仕事の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 犬は人に着き、猫は家に着く – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

猫がしでかすことは謎か?それとも詩か? – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Renars

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 31 「猫がしでかすことは謎か?それとも詩か?」

 
二人の人間が異なった感情を持つとすれば、それこそが対話を可能にする。私たちが本当に何物も所有しなくなった時、そこに詩があるのです。

John Cage (ジョン・ケージ 米国の音楽家、作曲家、詩人、思想家 / 1912~1992)
 

 20世紀の作曲家なのに「クラッシック音楽の作曲家」というのもなんだか奇妙な感じがしますが、当事者もそう思うらしく「現代音楽」とも言いますが、それではロックやジャズも「現代音楽」じゃない?と言われれば、やはり苦しさは免れません。
 そして、実際のところ、やはり愛猫家さんなので近々登場しますブライアン・イーノとか、現在のところ愛猫家であるか?の確証はありませんが(おそらくそうであろう)スティーブ・ライヒなどになってくると、「プログレシブ・ロック」や「フリー・ジャズ」「インプロヴィゼイション・ミュージック」などとの境目は曖昧になって来ます。

 従って、何をして「クラッシック音楽だ」「ポピュラー音楽だ」の話しをすればキリがなくなるので、ここでは割愛させて頂きますが、肝腎なことは、何故か「現代音楽の著名人」に愛猫家が多いことです。
 彼らの先駆的存在のエリック・サティーやドビュッシー、ラベルも愛猫家として大変有名です。
 
 それにしてもジョン・ケージの表題の言葉は、まるで禅問答のようです。分かる様で分からない。けれど、頭が痛くなりそうなほど難しい感じもしない。そして、全体的にはなんとなく心地が良い。けれど、やはり言語や論理としてはきちんと理解出来る訳ではない。と、まるで彼の音楽そのものです。しかも、それを日本語に翻訳しても尚そうだということに驚かされます。

 まず「二人の人間が異なった感情を持つ」と言っている以上、「異なる意見」以前に、「感情」の段階で、「通じあっていない」とか「分かり合えない」という結構深刻なことを言っているようにも思えます。
 そして「対話を可能にする」という表現は、とても面白い倒置的(逆説的)な表現で、普通ならば「対話が必要になる」でしょう。

 この文言には、実際の曲名ではなく、別な演奏者の初演がたまたまそうであったことから「4分33秒」という曲名で知られるケージの曲を想起させられます。
 楽譜には、ただ「第一楽章;休み、第二楽章;休み、第三楽章;休み」と書かれているだけ。楽器の指定もないのですが、ピアノ曲として演奏する場合、ピアニストは拍手を受けてステージに登場し、礼をして椅子に座り、ピアノの蓋を開けて楽譜を起き、4分33秒(でなくても良いのですが)したら立ち上がって礼をして舞台袖に下がる、というものです。

 かと思えばLP時代に三四枚、ずっと同じことの繰り返しとしか思えない音楽があったり。また、それと殆ど同じに聴こえる曲で、二人の演奏者が殆ど同じメロディーを演奏しているのですが、実は微妙にずれるように作曲されているがために、次第にズレが大きくなりどんどん違うメロディーに聞こえ(勿論ハーモニーなど感じられませんが)やがては次第に「殆ど同じに聴こえ」始め、一瞬「全く同じになり」またズレ始める…………。などなど。

 尤も、ジョン・ケージのこのような特殊な発想は、音楽でも愛猫でも先輩格のエリック・サティーたちが先駆者で、「4分33秒」の真逆の世界の「ベクサシオン」というサティーの作品は、1分程度のメロディーを840回くり返す指示があるもので、奇しくも初演はジョン・ケージ(たち)によって演奏され18時間40分で完奏したとのこと。(日本のTV番組でも検証されたらしいです)

 いやはや、愛猫家はけっこうですが、良き時代でもあったのでしょうが、好き勝手なことをやるものです。否、もしかしたら、彼らはなんとかして、「猫」を「音楽」で表現しようとしたのでしょうか? 少なくとも普通の人間以上猫に近しくあり、長く一緒に居て、感覚も幾分同化していた可能性はあるかも知れません。

 
 このような思考回路のジョン・ケージですから、普通ならば「異なった感情を理解し合うには対話が必要である」で済むところを、表題のように言うことで、何やら「別な意味」が存在するような「気にさせる」訳です。

「遊び」と言ってしまえばそうかもしれず。いっそのこと「悪ふざけ」と言ってしまえそうな感じもします。

 やや大雑把な括りですが、エリック・サティーから、この連載コラムの前々回の画家:ダリやジョン・ケージなどの時代、シュール・レアリズムやダダイズムがもてはやされた時代です。「デペイズマン」などと言う「普通のものが普通じゃない在り方」をしている時に、人間が何をどう考えるか?などの「真剣な悪ふざけ」が為された時代でもあります。

 例えば、帰宅してテーブル(食卓)を何気に見ると、逆さに伏せたコーヒーカップの上に、カップソーサーが置かれているのを見た様な気分です。意味も目的も不明・不可解の極みでしかかないのです。

 ところが、実は愛猫家の多くは、しばしばこれらを実体験するのです。
 
 ある時、録音の仕事で筒型で片側には皮を張らない太鼓を持ってスタジオに入り、ガラスの向こうでディレクターさんにカウントを出されて叩き始めたら「ぼそっ!」と鈍い音。「うわっ!破れている!」と心臓が凍りそうになったことがあります。良く見たら、太鼓の中にタオルが入っていたのです。

 またある時は、病院が嫌でキャリーバッグを見るなり逃げる子猫をやっと摑まえ、診察台で引っ張り出そうとずると、兄弟が「ぞろぞろ」三匹出て来たこともありました。「ずいぶん急に重くなったなぁ」とは思ったのですが。

 このように、私たち愛猫家は、通常では考えられない形に物が組み合わさって置かれていることを見ることは結構あるのです。
 
 最近分かったのは、折り畳み式の小さめのテーブルから本棚の上に飛ぶと、テーブルにストッパーを付けていても微妙に揺れて、その上のティッシュが低いテーブルの薬類(これはかなり厳しく躾けましたからいじりませんが)に落ちるという「仕組み」を発見して納得しました。なので、大概の場合、猫たちに「悪戯」の意識は全くないのです。 
 ですが、「不思議な偶然を生み出す天才」もしくは「ドミノ倒しの名人」であることは間違いないとは思います。

 20世紀の前半から中頃に掛けて、私たちは彼らのような一風変わった芸術家に、既存の常識や既成概念や固定観念というものの脆さや危うさ、場合によっては残酷さや哀しさを教えられました。
 それでも尚、私たち人間は、再び同じ様な「観念」や「常識」にすがってしまい、基本的なことは何一つ改めずに、近年再び同じように一触即発の対立の時代を迎えています。
 
 もしかしたら、ジョン・ケージの「考えれば考える程難しく」「考えなければ腹立たしい程悪ふざけのような」数々の創作の真意には、とてつもなく強い願いがあったのかも知れません。

 そう思うと、詩人でもあった彼の表題の言葉の後半もまた、しみじみと思えてくるのではないでしょうか?

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

自然の動画
おもしろい動画


Posted in 猫の名言 | タグ | 猫がしでかすことは謎か?それとも詩か? – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

目先の利益の為ならず – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Pete Zarria

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 30 「目先の利益の為ならず」

 
猫は食べないものでも散らかす。

インドの諺
 

 インドと言えば、ヒンドゥー教を思い浮かべる方は多いと思いますが、勿論イスラム教徒も少なくないですし、全体から見れば少数ながらジャイナ教、仏教、キリスト教、ゾロアスター教も居て、多民族・多宗教の国であると考えるのが妥当でしょう。

 それでもヒンドゥー教以外の宗教が、所謂「宗教」という概念の例外に漏れず「教祖」であるとか「経典」というものがありますが、ヒンドゥー教の場合、「教祖」は居ませんし、「経典」に相当するものは数千年の間に膨大な量が書かれており、一人の信者が一生の間に読破し理解し切れないものですから、所謂「聖書」の類いと同等に考えることは出来ません。この意味ではヒンドゥー教は、実に懐の大きな「宗教の集合体」のようであるとも考えられ、それ故に多宗教が共存し得たと考えることも出来ます。
 
 そんなインドですから、「そんな物は無いだろう」と言うと必ず何時か出くわしたりする、誠にとんでもない国です。
 例えば、私がかれこれ45年演っていますビートルズも弾いた弦楽器シタールは、「びよーん」といった音だけを出す伴奏の弦楽器を伴います。なので、ある時「ふっ」と、「二本の楽器がくっついていたら他所で演奏の時に便利かも」「いや、そんなものは流石にインドにも無いだろう」と思ったら、やはりありました。それは東京の武蔵野音楽大学・楽器博物館にも収められています。

 と、このように、大げさに言えば、インドという国は、「世の中のありとあらゆるものが混在する」とさえ言いたいような国なのです。そもそも「樹に捕われず森を観る」という点では世界有数で、何しろ彼ら(ヒンドゥー教の僧侶など)は、「森=宇宙=森羅万象」ですから、その感覚に敵う者など地球上には存在し得ない訳です。

 この連載コラムのVol.3で、スヌーピーの作者の言葉「もし道に迷ったら、一番良い方法は猫について行くことだ。猫は道に迷わない」をご紹介致しました。その際に、私が私のインド音楽教室の生徒さんに「インドでは道を尋ねては駄目です」と言った話しも致しました。彼らは「外人が珍しくて関わりたいから」も手伝って、「知りもしない道案内」をしてくれるからです。

 しかし、そもそもインド人は、「道順」という概念が無いのです。その代わり地理をごく普通の人でも良く知っています。今私がこの原稿を書いている福岡・博多(厳密には別ものですが)とは全く逆です。

 福岡・博多の場合、博多湾が湾曲しているので、戦国時代に栄えた街は、「広げた鶴の羽のような形」になっています。なので、海に近い方は、比較的碁盤の目のようになっているので、他の都市の城下町、門前町と変わりありませんが、海から遠くなるに従って、「扇形」を縦横に走る道の「誤差」が広がり、私が居る郊外などは、一本でも道を間違えたらとんでもない別な場所に至ってしまうのです。
 何故ならば、周辺の道は気づかない位大きな面積の中で湾曲していますので、「西に向かって真直ぐ走っていた筈が、かなり行くと北に向かっている」ということが多くあります。
 なので、こちらに来て最初、そのやむを得ない事情を知らない時には半ば呆れてしまったのですが、老若男女殆どの人が「東西南北」を言えないのです。東京ならば、「○○通りを○○交差点で北に」という様なところ。福岡・博多では、「右左」としか言わないばかりか、私が「北ですね?」と確認すると「北? かどうかは分からん!右だ!」と言われます。

 インドの場合、これと全く逆。右左は道によって変わるから殆ど言わない。代わりに彼らは地理全体を理解しているから、「東西南北」ははっきり言える。正に「樹(道)に捕われず森(地域全体)を観る」というあっぱれな感覚なのです。

 しかし、その理由は、以外に単純です。インドの道は、しょっちゅう「通行止め」になるからです。大雨が降ってマンホールから洪水が溢れるは、水道管が破裂して溢れるはで通れない。その工事でしょっちゅう通行止めになるけれど、雨期は雨の度に工事が中断する。そして、やっと工事が終わったと思ったら、聖なる牛が「どかん!」と道の真ん中に居て、とんでもない大渋滞で通れない。もしくは水浴びから牛舎に帰る水牛の列が500メートルも続いていて大渋滞。などなど。

 なので、インドの人は、端から「道なんぞアテにしない」「あって無いようなもんだ」と考えているのです。 そしてその方が、古代から続くインドならではの感覚に近しいのでちょうど良いということなのです。

 そんなインドの諺です、日本の諺と同じことを言っていても、言い方が「面白い!」と思わされるものが多くあります。

 では、表題の「猫は食べないものでも散らかす」は一体どういう意味なのでしょうか?、

 諺ですから、「猫を観てそのままを言った」筈もなく、比喩な筈です。
例えば私の好きなインドの諺に「空の豆は良く歌う(鳴る)」というのがあります。実際インドやアフリカでは、干した豆を紐で沢山繋ぎ振ると「かさかさ」良い音がする打楽器が数種類あります。が、これも「そのまんまじゃん?」と聞いては駄目なのです。

 この諺の場合「中身の無い人間程あれこれ良く喋るもんだ」ということなのです。
 なので、「猫は食べないものでも散らかす」もまた、インドならではの深い意味合いがある筈です。

 その一例が上記しました「インド人は知らない道でも教える」なのです。平たく言えば「インド人はおせっかい」ということ。もっと悪く言えば「インド人は(まるで猫のように)余計なことをしたがる」です。
 そのインド人にこの諺を出して比喩されるインド人たるや、想像しただけでも近寄り難い思いが募ります。(実際そんな知人は少なくありません)
 
 ですが、それもこれも、もしかしたら「道が無いと歩けない」「樹を見て森を観ない」習慣に馴れ切った私たちだからかも知れません。
 
 と考えながら眼の前の我が家の猫たちを観てその答えをまた探します。すると「ふっ」と思いつきましたのが。
 猫もインド人も、しばしば「利己に関わらないことをする」ということです。

 この連載コラムのVol.7の「真の自由」でご紹介しました「それぞれの猫はそれぞれの目的を持ち」と一見矛盾するようですが、その「目的」とは、私たちのような「目先の目的、目先の利己」ではなく、「遠くの目的(夢や希望や理念や宿命)」であり、実にスケールが大きいのです。

 なので、「道を知らないのに教えてくれる」姿を「外人と関わりたいのだろう」という私の解釈もまた、目先感覚の短絡的な解釈なのでしょう。
 きっと、インド人にその理由を聞けば「徳のためだ」とか、「カルマ(業)だからだ」と言うのでしょう。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

自然の動画
人間関係の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 目先の利益の為ならず – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

そう言われても… 猫じゃないんだから – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Anton Vakulenko

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 29 「そう言われても… 猫じゃないんだから」

 
人間は自由であり、常に自分自身の選択によって行動すべきものである。一人一人の人間が、究極の絶対的な自由を持っている。

Salvador Dalí (サルバドール・ダリ スペインの画家 / 1904~1989)
 

 幾分世の中を嘲笑したかのようなふざけた写真の数々で知られる、スペインの著名な画家ダリは、同じ時代の同じスペイン人の画家ピカソと共に相当な愛猫家として知られています。

 ところが、この名言、哲学者でもあり小説家でもある、ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre / 1905~1980)の名言であるとも言われます。二人が同じ名言を言った? それとも言わなかった? 今のところ謎なのですが、サルトルもまた、愛猫家であったことは確かなようです。それはそれで不思議な話しです。もしかしたら名言の数々は、彼らの愛猫が言わせているのでしょうか? 

 ダリの場合頭数は少なく、おそらくたったの一頭だったのでしょうが、「バブー」という名のオセロット種(野趣に富む)を、豪華客船のクルーズからエッフェル塔最上階、マンハッタンのホテルなどなど、ほとんど一緒に連れ回し、芸術談義の場にも居させたと言われます。

 宝石を散りばめた首輪を付けていたとも言われますから、所謂「猫を深く理解して」という「愛猫家」と言うよりは「溺愛」タイプのようにも思えます。

 が、表題の言葉を知ると、「愛猫家」であるか否か以前に、ダリが相当な「猫的な人間」であることは間違いありません。更に、この言葉に至る思想(生き方)を猫に学んだのであるならば尚更であり、元来そのような発想と生き方の人間であり、故に猫と相性が良いと自覚していたのであるならば、「溺愛」は、ダリ独特のパフォーマンスの要素もあるのだろうと考え直して、やはり「良く猫を理解した、素晴らしい愛猫家さんだ」と言えるかも知れません。

 まず表題の言葉は、「さらっ」と読んで「さくっ」と理解してしまえば、誰もが「分かった」気になれる言葉ですが、「ふーんそうなんだね」から先に思考が進みません。もしくは、「それはあくまで理想だ」という結論に至ってしまい、やはりそこで終わってしまいそうです。
 
 ところが、表題のこの言葉の「人間」を「猫」に置き換えれば、おそらく誰も否定しないでしょうし、御陰さまでそこそこご好評の御陰で連載を続けさせて頂いておりますこのコラムでも何度か、正にそう語っている「名言」をご紹介致しました。

 つまり、「猫ならば当たり前」のことなのです。
 問題は、それを「人間」に当てはめることが果たして出来るのか? ということです。

 しかし、おそらく多くの人々が、この「疑問」を即座に自己解決してしまうのでしょう。「まぁ理想論か極論だろうね」としていしまい、それ以上深くは考えないのだろうと思われるのです。

 近年、様々な自由は「勝ち取った」筈なのに、ちっとも「生き辛さ」は改善しない、という声を聞くことが多くなりました。
 その一方で、その「生き辛さ」を他者の所為にして起こる、反社会的な行為や事件、犯罪も増えて来ている印象を抱きます。

 私の個人的印象かも知れませんが、「金品目当て」の事件に対して、「金品以外」例えば「馬鹿にされた」「気に入らない」「裏切られた」の様な「肯定と否定」に関する感情が原因の事件の割合が増したようにも思えます。

 この見立てがもし正解であるならば、最近ではどなたも経済的に余裕は無いのでしょうが、それでも社会全体としては、ある程度「物質的」な繁栄に満足し、逆に「お金で買えないもの」を強く欲し、強引に手に入れようとするがあまりの事件が増えたと解釈する事が出来るように思います。
 つまり「物」を手に入れたり捨てたりの感覚で、「心」も手に入ったり、捨てられると感じているとか、他の感じ方が分からない、などが原因という話しです。

 すると、本末転倒な話しですが、数々の「自由」を手に入れた、と思っていますが、実は「肝腎な自由」とか「本当の自由」は、むしろ手に入れられていないのでは?と考えることが出来ます。
 
 例えば「表現の自由」は、SNSでもTwitterでも言いたい放題言えます。「選択の自由」は、ファミレスや居酒屋のメニューなど、目がくらみそうなほど沢山あります。「思想や考え方や価値観の自由」に関しても、「情報過多」と言われるくらい多種多様に何時でも「気に入った、腑に落ちるもの」が手に入ります。

 にも拘らず、「自由=幸せ=生きていて楽しい」とならないのだとしたら、それは何が原因なのでしょうか? 

 「自由」に関しては、この連載でご紹介したことと、日本と同じく敗戦を体験し戦争犯罪が問われたドイツの新憲法に、この謎を解く鍵を見ることが出来ます。

 また、それ以前に、誰もが表題の文言を「そりゃぁ理想論だよ、どだい現実無理な話しさ」と思うのは、その「究極の絶対的な自由」を行使した場合、ほぼ必ず「他人のそれ」とぶつかってしまうからに他なりません。

 樹木の枝葉が陽を求め「先へ先へ」と伸びようとする様を「自由への願望」と喩えたとして。他者の枝葉とぶつかるは、家の壁やフェンスにぶつかるは、が現実だからです。

 もしくは、「学校行きたくない=行かない自由」や「働きたくない=働かない自由」を得たところで、「生きる自由」が奪われてしまうならば、幾ら天才画家だ有名人だからと言って、ダリ氏の言っている言葉は、むしろ腹が立って来そうな位「意味が無い言葉」のように思えて来ます。

 そこで、今迄にご紹介した「名言」の幾つかと、ドイツ憲法で謳われている言葉が意味を持って来るのです。

例えば、連載Vol.9での愛猫家チャーチルの言葉「凧が一番高く上がるのは、風に向かっている時である。風に流されている時ではない」や、同じく愛猫家リンドバーグの言葉「人間の価値は成果の大きさではない。その人間が苦難を乗り越えた勇気の大きさである」のように、「容易く手に入れられる自由ではつまらない」と考え直し、むしろ「苦労して手に入れた自由こそ悦ばしい」と思えば、仮に「道半ば」で「自由度」がそれほど高くなくても、気持ちも心も閉ざされることはないのではないでしょうか? なによりも全て「自分の本当の力」で手にしようとしているのですから、「量より質」ではないでしょうか? 

 他方のドイツ憲法が引用した「言葉(考え方/概念)」は、第一次大戦の辛酸を味わいながら「何故ドイツ人は同じ後悔をくり返したのか?」を心理学の見地から説いたエーリッヒ・フロム(Erich Seligmann Fromm / 1900~1980)の「自由というものは、それを受け止める上で不可欠な孤独と責任をも受け止めた時にのみ得られる」というものです。

 これは正しく、この連載コラムVol.13でご紹介したアンディー・ウォーホールの「孤立することが悪いなんてちっとも思わない。僕にとっては最高の気分さ」と重なります。
 
 例えば、SNSやTwitterで、実名で発言してみたらどうでしょうか? 「匿名でさえヘタなことを言ったらとんでもなく叩かれる!冗談じゃない!」と思うかも知れません。しかし、それによって「誰?→自分」というものは得られることでしょう。「ヘタなことは言わない」とか「そのレベル」の選択は、確かに私たち一人一人の「絶対的な自由」な訳です。

 あと、一番肝腎な「猫に見習う自由」に関して最後に申し上げるならば、それは「好き勝手する」という行動の自由ではなく、「思考や夢想の自由」です。

 何も働かず、ご飯や居心地のことしか考えていないようでいて、猫たちは、日々、まどろんでいる時でさえ、「あれこれ楽しいこと」や「意外に論理的だったり哲学的だったり」なことを考えています。 その証拠が、本当に良く寝ている時以外の猫のおでこに触れると、結構温かいことです。脳の血流が多く、何かをたっぷり考えているのです。

 これも「個々に等しく与えられた究極の絶対的な自由」であり、論理的な思考は、心身を良い意味で活性化させ、悪質なストレスの撃退の特効薬でもあります。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

星・宇宙の動画
人間関係の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | そう言われても… 猫じゃないんだから – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

猫と子どもの方が社会的? – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Mathias Erhart

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 28 「猫と子どもの方が社会的?」

 
全ての猫が遊びにルールとしきたりを持つ。それは参加するプレーヤーによって様々だ。猫は、もちろんルールを破ることはない。もし、以前のルールに従わないことがあれば、単に新しいルールを作ったということだ。その新しいルールを急いで覚えて、遊びを続けるかどうかは、あなた次第だ。

Sidney Denham (シドニー・デンハム)
 

 この連載コラムで常々私は、「猫は独立(単独)棲の生き物」で「人間は群棲の生き物」と述べています。その度に、「なるほど!」と思って下さる方が居る一方で、その度に「納得いかない」という気持ちに駆られる人もいらっしゃる筈です。
 何故ならば、これら相反するふたつ共、人間の本質的かつ普遍的な心理であるからです。

 人間は、「群れに属し守られて生きる」ことを由(良し)とする心理を持つと同時に、「群れに埋没したくない=自我を見出したい」という心理を併せ持つのです。勿論ここにも個人差があり、同じ人でも時期によって異なったり、日々状況に応じて変化する人も少なくない筈です。

 デンハム氏は、表題で「遊びのルール」とおっしゃっていますが、前回(Vol.27)で述べた様に、基本的に心も体も健康的な猫は「同じことの繰り返しの日々」を好む「常同性」が強い生き物です。故に「遊びの場合」には限らないはずです。

 そしてそれはデンハム氏がおっしゃるように、「個々の猫によって異なる」のです。「ご飯だ!」となると決まって先にトイレに入る子、爪を研ぐ子、私におでこを撫でられるのが「しきたり」になっていて、自らでおでこを差し出す子。私のおでこに自分のおでこを当てて(結構強く)「ごっちん!」としてくれる子。開けられたケージの扉の鴨居におでこを押し付けて、「変顔」を見せてくれる子………….。と、実に様々です。

 これは、前述しましたように「しきたり」であり、個々の猫の「ルール」なのです。ところが、やはりデンハム氏がおっしゃるように、或る日突然しなくなることもあれば、別な「しきたり」に変更されることもあるのです。

 それら変更にも必ず必然的な理由があり、しばしば体調の良からぬ変化の時もありますから、私たちは、その謎解きに日々苦悶する訳です。

 このような猫の様子を見ると、「人間の子どもと大人」の違いについて、しみじみと考えさせらえます。

 子どもの頃は、「そんなことはしちゃ駄目!」「何故ならばそれが決まり(ルール)だから!」と叱られ、「勝手気まま・我が儘も駄目」と躾けられる。
 ところが、「そう言う大人はどうなんだ!」というと、かなりいい加減だったり、矛盾に満ちていて、それらは「反抗期」の正当性、大義名分にもなる訳です。

 
 ここ数年、聖職と呼ばれた職業の人や、公共的な仕事の人の信じられないような事件や、食品や建築の手抜きや不正が多く報じられます。
 そのような事件が「増えた」という実感は、報道のなせる印象操作もあるかも知れませんし、情報が昔より多く迅速に駆け回っている所為もあるのかも知れません。
 
 そもそも、思春期の頃に都合良く「ルールは破る為にあるものだ」などという台詞が、如何にも格好良く聞こえ、そんな気分の年頃に限ってそんな言葉が何処からとも無く聴こえて来るものです。

 つまり、子どもの頃に言い聞かされていたこと、「ルールを守るのが真っ当な社会人=大人」という方式は、どうも「嘘くさい」ということを痛感して行く姿こそが「大人になること」のような状態なのです。結果論としてですが。

 つまり、これ(大人こそルールを守らない)こそが事実、真実であるとして、では、「何が子どもで何が大人なのか?」ということが疑問・テーマになる筈だ、ということなのです。

 既に大人になった(一応?)私たちはまだしも、このことを我が子や孫に問われた際に、このテーマについて明確な答えを説くことが出来るのか? は、一度しっかり考えておく必要もあるかも知れません。

 
 かなり偏った極論かも知れませんが、私の持論・結論を申し上げるならば、「大人こそルールを守らず、子どもこそ見事にルールを守る」と言えます。

 大人は、まるで子どもの頃の「それしちゃ駄目、あれも駄目」の「束縛感・不自由感」から解放されただけでなく、かつての「恨みはらさずにいられよか?」とばかりに、自分の時間や自分のお金を手にした途端、「好きな時に好きなものを好きなだけ食べたり飲んだり」する。
 勿論、様々な制約があって、全てが「好き勝手に出来ない」。すると、それを「不満、ストレス」として被害意識を抱き、発散出来る時や勝手出来る時にそのウサをはらす。

 ところが、子どもたちを見ていると、実に真面目に真摯に「ルール」を守っているのです。限られた土地で、限られた道具の草野球では、「ホームラン禁止」だったり、それを破って代わりが無いボールを無くした場合、「弁償の掟」があった。

 尤も、「物質的に豊か」になった今日、「買って返せば良いんだろ!」という時代になってしまったかも知れませんが、それはそれで「便利が『ルールを守る精神』を阻害している」という皮肉な現象であると言えます。

 つまり、不便や物不足や、条件が限られていればいる程、子どもたちは智恵を出し、そこから生まれた「ルール」を自らで納得して遵守する訳です。逆にそれを守らない子は嫌われ、仲間外れになって行きます。「遊びがつまらないものになる」からです。
 
 要するに子どもたちは、「遊びがより楽しくなるために、ルールが必要である」と大人以上に真面目に真理を悟っているのです。

 大人だって本質的には同じ筈で、「手抜き・不正」をすれば、自分の仕事に誇りを持てなくなるばかりか、愛せない=辛いしんどいばかりなって行く。その分、お金が欲しくなり、そのお金で好き勝手をして「ストレス対策」とする、という、自作自演のおかしな悪循環にハマって行く訳です。

 勿論、そんな大人はごく一部でありましょうが、子どもの場合、殆どの子が「心からルールを大切にしている」と言うことは出来ます。そして、彼らの間では「ルールを大切にする子=良い奴」なのです。

 それと比べると、大人の中で、子どもと同等に「ルールを納得して、自分達に必要なものだ、と愛している」人は、ルールを守っている真面目な大人の中でも少ないのではないでしょうか?

 こう考えると、「子どもと大人とは?」の結論は、悲しいことに「子どもは真のルールを心から大切にする」であり「大人は、しかたなしのルールを嫌々守る」とさえ言えそうなのです。これはある意味「純粋さ」と同じ話しかも知れません。
 
 さすれば「子どもは幼稚で社会人としては未熟だが、大人は立派だ」という子どもの頃に強要された観念に対する「どうも違うっぽいぞ」という疑問は、ある程度正解だったと言えるような気がします。

 ただ、それでも人間の子どもたちの「ルール」は、二人以上で何かをする時に限られています。逆に、子どもが自分独りのために、自らで「ルール」を課すことはまず無いのでは? と思います。
 つまり「ルールに関する真面目さ」に関して子どもは、大人以上に「社会的」ということになります。

 ところが、猫たちは皆、自分自身で自分だけに「ルール」を課し、それを決して他者に要求しないのです。

 極めて純粋な「克己心、自律心」である。というのは、褒め過ぎでしょうか?

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

自然の動画
おもしろい動画


Posted in 猫の名言 | タグ | 猫と子どもの方が社会的? – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

猫の心の平穏は「常同」にあり – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Enrique Mendizabal

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 27 猫の心の平穏は「常同」にあり

 
猫は、自分の同意のない変化を嫌う。

Roger A. Caras (ロジャー・カラス 米国の野生動物写真家 / 1928~2001)
 

 前回(Vol.26)でお話ししましたように、猫を人間の思い通りにさせることは、ほぼ不可能ですし、愚かしいこととも言えます。ところが、猫自身が納得した場合、より正しいことを納得して行動してくれます。しかも、その方が猫の健康と元気と長生きのためになるのです。
 
 その一方で、賢く、自然の摂理を感じ取る力と叡智に満ちた猫の行動は、そもそも「自然の摂理」に沿っている場合も少なくなく、それについては人間が大いに学ぶ価値があるものとも言えます。

 表題の動物写真家カラス氏は、勿論猫だけが好きという人ではなく、犬に関する名言も幾つか知られています。つまり猫だけを愛する愛猫家さんではないのですが、表題の言葉は、かなり深く猫を理解していると感心させられます。
 
 「自分の同意のない変化を嫌う」ということは、「同意・納得があればOK」ということでもありますが、何よりも「変化」というものに対して、猫が私たち人間が感じる以上のストレスと不安を感じることを、深く理解している人なのだなと思うからです。

 
 そもそも私たち人間には、「群れて暮らす哺乳類」であることと、「肉体的に脆弱な分、適応力に富むことで生き延び繁栄した」と「今迄の生活に無かった新たなものを創造する」という三つの大きな特徴があります。

 つまりこれらの力こそが、私たち人間の数少ない限られた、しかし最大の長所であり武器であると言える訳です。

 逆に、我が儘・勝手放題ですと群れから追い出されてしまいますが、天敵から逃げる足も遅く、牙も鋭い爪もなく、体を守る甲羅も皮毛もなく、全く独りでは生きては行けない動物なのです。

 
 一世代以上の長い年月を掛けてのことですが、人間はより良い環境を求めて住む場所を替えたり、同族同士の争いで避難・逃避行をくり返して来ました。
 やはりそこでも「適応性」に富むことが生き延びることの最重要条件であった訳です。

 また、その特異な「創造力」と「開拓精神」も人間の体と心と知能を活性化させ、より健康な状態を維持し、良質の子孫を残して来たことも重要な要素です。

 したがって、「群れ=社会」が恒久的に安定し、平穏無事に日々同じようなことがくり返されることは、ある意味「理想」なのですが、皮肉なことに多くの人間は、それでは逆にストレスが溜まってしまうのです。

 不要になった能力(変化に対する適応力)が不活性になってしまい、身も心も澱んでしまうと同時に、「平穏無事」が長く続くと、逆に無意識(潜在意識)の中に「閉塞感」を高めてしまうという皮肉な本質を持っているとも考えられるのです。
 キザに言えば、「人間は根っからの旅人である」ということですが、「ストレスを貯め易い」ということも言えるのです。

 
 ところが、世界の様々な民族を長い歴史の視野で見てみると、「変化に富んだ波瀾万丈の歴史」を持つ民族よりも、「日々同じで平穏無事な歴史が長い」民族の方が、平均的に長寿なのです。しかも、所謂「長寿国」とか「長寿民族」と言われる人々は、むしろ苛酷な自然環境で生きている場合が殆どなのです。夏は高温、冬は極寒で、険しい山々に囲まれ、食料も決して豊富でないような。

 つまり、「平穏無事で変化に乏しい日々」に対し「閉塞感のストレス」を感じないことと、「自然環境の厳しさ」を上手に有用ストレスとして受け止め、悪性のストレスを溜め込まないことが、健康で長生きの秘訣という結論に到るのです。言い換えれば、多くの人間は、自らで自分を追いつめ不健康にして病気になったり短命で終わるということです。

 勿論「何もしない長生きよりは、短命でも自分で満足出来る波瀾万丈な人生が良い」という逆説的な選択もし得るのも人間の人間たるところでもありますが。
 「自然を愛し、自然と向かい合い、つつましく、穏やかに、笑顔を絶やさず」という選択もまた人間らしさでもある訳です。

 さて、猫の場合ですが、猫は、基本的に「閉塞感のストレス」を処理することに長けた生き物です。危険が去るまで何時間もじっとしていたり、お気に入りの場所があれば、一日中そこで昼寝をして、時々ご飯やトイレに動く程度。言わば「なまけもの」のような生き方が、ある意味理想であり自然体といった感じです。

 ところが、何らかの原因で精神状態のバランスを壊し、様々なことが狂い悪循環を来した場合、猫はそのストレスに対し非常に脆弱な生き物に変貌します。そして、「何とかしてこの状況(状態)を打開したい」という精神状態に支配され、狂ったように動き続けることがあります。「状況の打開は、じっと辛抱して待つに限る」というこの基本こそ、体力温存に繋がり、最も賢明な判断なのですが、全く逆になってしまう場合があるということです。

 ペットショップのガラスケースの中でも、私たちの家で喧嘩や治療のために入れられたケージの中でも、「出せ!出せ!」と鳴いたり壁面を擦ったりだけでなく、短い距離を凄い早さで行ったり来たりします。

 獣医学用語では、これは「常同行動」と言われ、極めてゆゆしき状態なのです。

 
 その一方で、用語的に似ているがために、獣医さんでも若干混同気味の人をたまに見かけますが「常同性」というものがあります。これは、むしろ「健康的で、平穏な状態」を意味します。

 何時も決まった時間に、決まったメニューのご飯を、決まった場所で決まったお皿で、決まった量を食べることを「由」とする感覚です。

 猫によっては、その前に必ずトイレに行きたがる子も居れば、必ず爪研ぎをしたがる子も居て、同室に二三頭居る場合、さっさと食べ終わった子に盗られてしまう場合も少なくなく、「何で今それなの?」といじらしくも不甲斐ない切ない想いに駆られます。

 事の真偽は分かりませんが、アメリカ大リーグで今も活躍する人気が高く有名な日本人選手が、『一年中同じ奥さんのメニューでも良い』とおっしゃったかおっしゃらなかったか?が話題になったことがありました。

 「分かる!」と言う人もあれば「分からない!変だ!」とおっしゃる人も居て、賛否両論でした。

 ところが世界的視野で見ると、何か非凡な才能を持ち、更にそれを活かし歴史に名を残した人の多くに同じ傾向が見られるのです。
 そのような人は、普通人が耐えられない緊張やストレスには強い代わりに、普通人が何ともなく平気に感じるストレスや変化にはめっぽう神経質ということも共通しているようです。

 ご本人が「猫好き」かどうか?は別として、猫的な人であることは言えるかも知れず、実際愛猫家さんが少なくないのも事実のようです。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

自然の動画
仕事の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 猫の心の平穏は「常同」にあり – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

猫に学ぶ「本当の自由」 – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Sandy Schultz

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 26 猫に学ぶ「本当の自由」

 
猫は、自分のしたいことをしたい時にする。貴方には為す術は一切ない。

Frank Perkins (フランク・パーキンス 米国の作曲家 / 1908~1988)
 

 フランク・パーキンス氏は、1960年代に多くのヒット映画音楽を手がけた人として知られています。

 彼が言う「猫は、したいことをしたい時にする」は、多くの愛猫家さん、猫と暮らしている方々がある意味「それが猫!」と当然のようにご存知のことですが、逆に「貴方にはなす術は一切無い」というのは、あまり聞きませんし、考えたことが無いという人も多いのではないでしょうか?

 この場合の「なす術」とは、「猫がしたいことを → させない方法」であり、または「猫にこちら(人間)がして欲しいことを → させる方法」である訳ですが、パーキンス氏は「どちらも不可能」とお考えのようです。

 確かに、愛猫が具合が悪く食べてくれないような時は、あれこれメーニューを変えても全然駄目だったりは、しょっちゅうのことです。
 また、一旦喧嘩のスイッチが入ってしまうと、止めるのは不可能に近い。下手に手を出すと、私たちも大怪我を負います。私も一針縫う怪我で数日痛みで寝られなかったこともあります。
 
 しかし、この十年で、かつてパーキンスさんと同じように考えていた理解と認識は大分改めることとなりました。

 「喧嘩を止める」時は、各部屋に準備した「霧吹き」を水鉄砲のように出して一瞬躊躇させたところに、尻尾でも足でも踏んでみると、意識が切り替わって「やめなさい!」の声が届きます。
  
 また、「食欲不振」の場合は、まずその原因からフォローし、胃腸炎や、胃腸の働きが過剰だったり過少だったり、電解質バランスの狂いや、若干の脱水状態などの方をフォローしてからの「手を変え品を変え」は、かなり有効になります。

 などなど、「猫にして欲しいことをして欲しい時にさせる」ということは、まんざら「不可能」でもないのです。
 
 しかし、それも実は「して欲しいことを猫がしたいことにすり替える」というある意味高等技術であるとも言えます。
 その意味では、「人間がして欲しいこと、させたいことを喜んでする犬」とは、根本的に異なることには変わりはありません。
 
 さらに言えば、私たち愛猫家は、第一段階:入門~初級編では、あれこれ、ひいひい言いながら手を変え品を変え努力するけれど、「親の心子知らず」で全く徒労に終わる。
 しかし、第二段階:中級編では、猫の心情や本質が大分分かって来て、無駄な努力は少なくなるし、逆に「猫のワガママ」を利用して巧妙な策をこうじることも出来るようになる。そして、最終的な上級編の第三段階では、気づけば、こちら(人間)が、いつの間にか猫が気に入るようなことをしていたり、猫に躾られていることに気づくという何やら矛盾、本末転倒なことが真実なのかも知れません。

 例えば、引き出しや、果ては冷蔵庫迄開けてしまって、中の物をぐちゃぐちゃに散らかしたり、つまみ食いをされたりした時。「簡単には開けられないように工夫」がその度に進化するのですが、気づけば、「整理整頓」や「小分けにしてしっかり蓋をする」など、私たちにとっても理想的な方向に躾られているという訳です。

 それまでは「こんなもんでよいだろう」とか「後できちんとするけれど、今は忙しいからとりあえず」のようなことがとても多かったのです。しかし、猫たちは、その甘えや隙を見逃しません。見事にしてやられるのです。
 で、結局は、その後片付けで、余計に時間が無くなり忙しさが増すのです。
 
 なので、その都度その都度、きちんとすることを躾けられる。結局は、その方が、あらゆる点に於いて最善の策であり、最も時間を節約出来ると思い知る訳です。

 そして、「はたっ!」と気づき、思い出されたのが、小学校時代の頃のことです。学校から帰って、玄関にランドセルを脱ぎ捨てるように落とし、「やりたいこと」にまっしぐらでした。
 お目当てのTV番組が始まりそうなので、脱衣所に服を脱ぎ捨て雀の行水でお風呂を済ませた。自分の食器洗いは「後でちゃんとやるから」と食後も直ぐに「やりたいこと」にまっしぐら。

 しかし、「やらねばならない=逃げられないこと」は、結局後に回すと余計にしんどいことになる。

 それらをうるさく言う親から解放されて久しい頃に、今度は猫が親代わり。ところが、それが結局は正解と、良い歳になって改めて気づくのです。
 「好き勝手の自由」は、決して「伸び伸び楽々」ではないことに。

 と、人間にそんな教育的指導をする猫はどうなのか? 

 実は猫もそういうことを痛感し改めるのです。
 一頭だけだった時は、食べ残して、また好きな時に残りを食べていた子が。数頭になると「今食べておかねば盗られる!」と必死で食べる。結局は、その方が胃腸が働く時と休む時の良いスケジュールを与えて、むしろ調子が良い。

 口に無理矢理ねじ込まされる薬も、「逃げ切れない」と知ると、嫌々ながら辛抱することを覚える。カプセルに入れた薬は、噛まずに上手に飲んでしまわないと、かえってとんでもない苦行を味わうことになると理解する。などなど。

 勿論、猫によっては、何時迄もそれが分からないお馬鹿な子もいますが。結局「嫌な思い」が増えるばかり。逆に、学び気づき納得した子は、表情が賢くなり免疫力も増して、以前より元気になる。言わば「良いことずくめ」。

 おそらく、猫本来の純粋な叡智の判断による「やりたいことをやりたい時に」は、自然の摂理に見事に従った、「道理」であり「真理」だったのでしょう。
 その場合は、人間がそれを学び、猫に従うのが賢明。

 それとは異なり、人間の真似をしてか? ただただ勝手気ままな「錯覚の自由」にまみれていた猫は、自らで悟って改める。だから、矯正でも強制でもない。あくまでも自由意志で。

 そう考え行動したり、改めたり、向上・成長することは、誰も束縛・妨害しない「無限で本当の自由」であることを猫に学んだ気がします。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

自然の動画
おもしろい動画


Posted in 猫の名言 | タグ | 猫に学ぶ「本当の自由」 – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

目から鱗の猫の名言 – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Kevin Dooley

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 25 「目から鱗の猫の名言」

 
愛するとは互いに見つめ合うことじゃない、ふたりで同じ方向を見ることだ。

(元野良猫、茶羅の言葉)
 

 Vol.13「孤独を愛する寂しがり屋」のアメリカの著名な芸術家アンディーウォーホールの回で、少しお話致しました我が家の元野良猫「茶羅」のこの名言は、彼がはっきり言葉で述べたものではなく。在る時、じっと私の眼を見つめて、しみじみと眼と心で語ってくれた名言です。

 それは前述の機会にもお話しました、彼と共に保護した彼の妹かお嫁さんが「プチ家出」をした時のことです。
 毎日、日中のみならず、夜明けも深夜も、彼と交替にベランダで彼女が現れるのを待ち、現れれば「帰っておいで!」と呼びかける一週間ほどの日々の後半に、彼がとつとつと語ってくれた想いなのです。

 保護する前は、彼に餌付けをしていたご近所さんが「この子は絶対に触らせないから保護なんて無理!」と言っていたのに、今では、毎日の薬(幼少の野良時代の不摂生のツケが出て来ました)も頑張って口を開けて飲んでくれています。

 そんな「真摯に孤高の野良を生きた」彼が、「ああ、この人間も、僕と同じに彼女を心底心配しているんだ」と思った時。
 毎日、朝から晩迄、同じベランダから同じ方向をくまなく見つめている時に、彼は表題の言葉の想いをしみじみと痛感し、分かってくれたのでしょう。

 
 世界の歴史に残る著名人の名言を集めたサイトは幾つかあれど、この「癒しツアー」さんほど、多岐多様を整理整頓し、しかも掘り下げて紹介しているものは少ないと思います。私も日々、読者として愛読し、学び気づかせて頂き感謝しております。
 
 そうして、つくづく思いますのは、「人間の素晴らしさと愚かさ」は、常に「表裏一体」であり、時には「諸刃の剣」であるということです。

 その点を単純に比較すれば、それらから解放された猫は、「羨ましいほどに立派だ」と思える反面。
 だからこそ、私たちはその「表裏」をしっかりとわきまえて、猫に出来ない「思考と探求、つきつめること」で、人間ならではの理知的な答えを見出し、その時々の問題に向かい合って、より良き方策や解釈をすべきではないだろうか。
 それがひいては、人間が猫たちや様々な生き物や自然を守ることに繋がるのでは? と考えるわけです。

 「人間の素晴らしさと愚かさ」「表裏一体」「諸刃の剣」に共通して言えることは、「相反するものの対峙」でありましょう。
 私たち人間は、日々、それら「相反するもの」の選択に迫られ、苦悶し、葛藤して生きている。
 それに対し猫は、何処か「悟り切った」ように「どっちでも良いじゃん」と冷静であるので、つい「羨ましい」が「恨めしい」に至ってしまうわけです。

 そのような意味で、私たち人間が、「他者の言葉」を聴く時にも、「相反するふたつの心理」が働いていることに気づきます。
 その一方は、「その時直ぐに『正におっしゃる通り!』と賛同出来る言葉」と、もう一方は、「その時には首を傾げる言葉」。もしくは、「後から分かる言葉」。または、「眼の鱗が落ちる様に」その時迄の理解と解釈を覆す様な言葉であろうと思います。

 このように、人間は、常に、「相反する二つ」のものごとや心理の中で、何らかの必然性を持ってバランスを取って生きているのではないでしょうか。
 言い換えれば、長い期間どちうらか一方に偏って居ることは、決して良いことではない、ということです。

 かつて、若気の至りと言いますか、血気盛んな頃、音楽の神髄や奥義を探求することに使命感を抱いていた頃のことです。
 「インド独立の父」と称されるマハトマ・カンディー氏の言葉に、打ちのめされるような衝撃的な感銘を覚えました。
 それは、「眼の鱗が落ちる」などという程度ではありませんでした。
 
 それを要約すると、
 「貴方がそれをやるべきなのは、それによって世の中を変える為ではない」
 「貴方が世の中によって変えられることを防ぐ為だ」というような言葉です。

 猫の中にも、「自分のことで精一杯」の子が居ます。
 そんな子は、「押しても駄目なら引いてみな」が理解出来ません。
 ところが、気持ちに余裕が在る子は、扉を引くことを自然に思いつくのです。

 「発想の転換」というようなことですが。時には、その時迄信じて、拠り所にしていた想いを否定し、全く逆の考え方に変革することも求められ。それには少なからずの勇気と決意が求められるのです。

 逆に、私自身も含め、私たちは日々、「おっしゃる通り!」と、その時に思い考えている考え方を肯定してくれる言葉に、喜びを感じがちです。

 例えば、これも「若気の至り」の話ですが、まだ恋愛に没頭していた頃は、表題の文言とは逆に、「見つめ合うことが愛すること」と思っていたものです。相手の良い所のみならず、欠点も弱さも総て受け止めて……..。のように。

 
 その一方で「聞いた言葉」には、「ピンと来ない」ものや、「そりゃ違うだろ!」と即座に思うものもあります。

 例えば、「人」と言う文字について、多くの人が「素敵な解釈だ」とおっしゃるのに「人と言う文字は、互いに支え合っている姿を著わしている」というものがあります。
 
 しかし私は、その解釈を聞いて直ぐ、「ちっとも『互い』には見えない」と思いました。むしろ「左の棒が右の棒に寄りかかっている」。

 もちろん、私たちは互いに支え合い、助け合い。時には励まし合い、競い合って生きて居ます。しかしそれは、それぞれに「前に進む(成長する、向上する)」という指向性があってのことではないでしょうか。 

 なので、私はくだんの言葉を聞いた後「人という文字は、独りで前に進んでいる(歩んでいる)様子」を表していると言うようになりました。
 
 そんなことに気づいた頃に、「互いに見つめ合う」という愛し方にも疑問を抱く様になったのです。
 愛情を自覚し、語り合ったところで「さて、共に何処に向かって歩んで行くのだろう?」とふと考えてしまったのです。

 
 勿論、今でも猫たちとの「愛情の確認」は、「じっと見つめ合う」が基本です。それは猫が「分かっては居ても、人間の眼・まなざしで心を確かめる」からです。

 しかしそれも、その時々の私たちの気分や心の様子を確認するに過ぎず、基本的な「心の通い合い」は、やはり表題の言葉のように「同じ方向」を目指し、「同じもの」を慈しみ、心配し、感動する、ということだと思います。
 
 猫たちの多くが「最も嬉しそうな時」は、美味しいご飯を充分に食べられた時、ではない様子です。
 「常同性」。常に同じパターンを好む性質の強い猫は、ご飯があれこれ替わることの方が苦痛のようで、直ぐにお腹を壊します。
 
 そんな猫たちが、一番嬉しそうな時は、私がホンの90分ほど、猫たちと仮眠をする時です。わざわざ棚の上や隣の部屋からやって来ては、私の足下に潜り込んだり、腕枕を要求して来ます。
 その一時の他は、何時も忙しそうに何かをしている人間が、一緒にまどろんでくれることに、とても安心出来て嬉しい様子なのです。

 実は、表題の名言は、我が家の元野良:茶羅から聞いた後、世界的に知られる著名人の言葉であることを知り驚きました。
 
 名言の主は、「星の王子様」の作者、サン=テグジュペリ (1900~1944)です。

 彼が「愛猫家」である、という話は語られてはいませんが。その他の言葉も含め、「おそらくそうであろう」と思わされることが多くあります。

 もしそうだとしたら、「大空を駆け巡り」ながらも、その心の置き所は、猫たちの「お気に入りの場所」のようにしっかりと決まっている。同じ飛行機乗りで愛猫家、リンドバーグに通じる感覚を多く読み取ることが出来ます。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

かわいい動物の動画
人間関係の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 目から鱗の猫の名言 – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

犬には同情、猫にはヤキモチ – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: li yong

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 24 「犬には同情、猫にはヤキモチ」

 
犬は、猫の方が利口だと本能的に知っている。だから、家に猫がやって来ると憤慨するのだ。

Eric Gurney (エリック・ガーニー カナダのイラストレーター・漫画家 / 1910~1992)
 

 カナダ生まれ育ちで、ディズニーカンパニーで頭角を著わしたガーニーは、この言葉を知るまでの私の思い込みだったかも知れませんが、どちらかと言うと猫より犬を多く描いているようでもあります。

 また、幾分擬人化しつつも、実にその生態や心理を深く描写した、犬や猫に限らず鳥も含めた、言わば「生き物全般」をこよなく愛する人物の印象がありました。これはきっと、私のみならず多くの方々に共通する印象ではないでしょうか。

 さらに言えば、その代表作「ノイローゼの犬(1960)」と「計算高い猫と同居する方法(1962)」の二作のイラストやテーマをそのまま受け止めるのであるならば。

 むしろ犬には同情的で共感を抱き、猫に対しては少なからずの警戒心、違和感、そして批判精神、皮肉感覚を抱いているようにさえ思えていました。

 なので、私は表題の名言を知った時、実に意外に思うと同時に、この言葉の奥深さに大いに感銘を覚えたのです。

 
 まず、表題の名言には、ふたつの異なるテーマを感じます。
 ひとつは、この連載で何時も語らせて頂いている、表題の名言の意味する奥深い真意についてです。
 もうひとつは、幾分唐突ですが、「愛猫家って何だ?」というテーマです。

 いずれも語れば膨大な深いテーマですので、あえて今回は、後者に偏って申し上げます。

 この連載コラムでご紹介している「世界的著名人で愛猫家とその名言」の大半は、「ほぼ猫に特化して溺愛している人物」ですが、Vol.9でご紹介したチャーチル首相、Vol.15の米第16代大統領リンカーン、Vol.16の小説家マーク・トゥウェインなど、二割ほど「犬猫にこだわらず動物全般の愛護家」が居ます。
 
 彼らは、「猫に関する名言」のみならず、「犬に関する名言」や、様々な「生き物に関する名言」をも残しています。

 また、ネット検索によって「犬にまつわる名言」も少なからず知ることが出来ますが、そこでも「犬に特化して溺愛している人物」が大半な中で、「犬猫に限らず、生き物全般に対する愛護家」は、やはり同様に二割前後なのです。

 これらについてさらに掘り下げて考えてみる前に、お断りとご理解をお願いしたいことは、私は、決して「猫だけに特化して溺愛している」タイプではない、ということです。

 その根拠は、東京から福岡まで、運送会社の2tトラック20台もの(非常識な)大荷物の引っ越しをしましたが、その内の一台は、「昆虫飼育道具と淡水魚飼育道具」で埋まってしまいました。
 子供の頃から中学生で民族音楽にハマる頃まで、生家には、猫のみならず、犬も必ず居て、鳥類は父がマニアで、百種近く。インド孔雀迄居ました。
 福岡にもショップで売れ残った(母犬に虐待されたらしく、心に大きな傷を持つ)ミニチュアダックスも一緒に連れて来ました。(ほどなく「どうしても欲しい」という方にお譲りしましたが)

 なので、決して「猫だけが好き」とか、「猫が犬より、もしかしたら人間より素晴らしい」という偏った観念を抱いている人間ではないことを是非、ご理解頂きたいのです。

 むしろ「愛猫家さん」たちの気分を害するかも知れませんが、
「愛猫家の著名人」の、半数以上が、「人間関係が不得手」「多分に偏屈である」、という普遍的な傾向があると考えます。

 勿論中には、リンカーン、ジョージ・ブッシュや、マリー・アントワネットのような社会活動の面で名を残した人も居ますが、強いて言えば彼らは「猫だけ」と言うより「生き物全般に対する愛護意識」が強い方々のようです。

 「とりわけ猫が」という著名人の多くは、画家、音楽(作曲)家、小説家、研究家、発明家など、「自宅の自室に籠って」というタイプが圧倒的です。
 その結果として、「孤高」であったり「孤独」であったり、幾分「反社会的」であったり、それ程でもなくても、「偏屈」という人は少なくありません。
 しかし、決して「人間嫌い」ということではなく、むしろ「恋多き」人物はけっこう多く居ます。

 一方の「犬に特化して」のタイプの著名人の大半を占めるのが、社会的に成功した人物です。つまり、「社会性に富み」「人間関係の面で長けている」。勿論、信頼や人望が豊かな人々です。
 この点では、「愛猫家」の、「偏屈」とは、全く反対の対照的な様相が明らかに見て取れます。
 
 しかし、その延長線上には、彼のナポレオンや、ムッソリーニ、ヒトラーといった最終的には、地位と権力に溺れ、大衆や庶民をないがしろにした「愛犬家」も少なからず存在します。

 つまり、「犬に特化した愛犬家」の多くには、良く言って「社会性に富み、社会を愛する」性質が菅著にあり、悪く言って、「地位と権力を求める」傾向があることは、決して偏見的決めつけではないと思われるわけです。

 一方の「猫に特化した愛猫家」の多くには、悪く言って「偏屈で非社会的」 しかし、良く言えば「猫に限らず、人間も含め、その心を愛する」ナイーブな性質が見て取れるのです。
 つまり、結果論として、その純粋さの持つ幼稚さや身勝手、我が儘の所為で、孤立することはあれど、人間や社会に対して嫌悪感を抱いているとは限らないわけなのです。
 
 表題のエリック・ガーニー氏の言葉を逆さまに置き換えてみましょう。

 つまり「猫は、犬の方が本質的にお馬鹿だと知っている」か、もしくは「猫は『この犬はけっこう賢い』と本能的に分かっている」場合ですが。
 
 おそらく間違いなく、その場合でも猫は、その犬に対して「敵愾心」を抱き、むき出しにはしないだろう、ということです。 

 猫にしてみれば、「お馬鹿」だったら関わらず、「放って置こう」に過ぎず、「お利口」ならば、「何も心配は無い」と考えるでしょうから、やはり慌ても騒ぎもしない。
 逆に、犬は、「この猫はお馬鹿だ」と思えば、明らかに態度に出るような気もします。

 これらを総合すると、エリック・ガーニー氏のこの名言は、彼の二つの代表作「ノイローゼの犬」と「計算高い猫」に見事に通じることが分かるのではないでしょうか。

 つまり、犬、及び同様に、「社会性や序列、優劣」にこだわっている人間は、そのことで自らを混乱させ、ひいてはノイローゼにまで至ってしまうことに対し、深い哀れみの心を持って「もったいないことだ」と、言いたいのではないでしょうか。
 逆に猫は、「その問題から解放されている、憎たらしいほど見上げた精神だ」と、言わんとしているように思えるのです。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

自然の動画
仕事の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 犬には同情、猫にはヤキモチ – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

猫のオーラは天井画 – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Robert Anders

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 23 「猫のオーラは天井画」

 
猫は、どんなに小さくても最高傑作である。

Leonardo da Vinci (レオナルド・ダ・ヴィンチ イタリアの芸術家 / 1452~1519)
 

 この「癒しツアー」さんのサイトでも、「史上最高の画家であり、人類史上最も多才な」と称されるダ・ヴィンチもまた、「愛猫家」として知られています。
 
 この表題の名言の真意を探るKey-Wordは、「小さい」と「最高傑作」がセットになっていることでしょうか。

 つまり、うがった見方で言いますと、ダ・ヴィンチ自身の、もしくは15世紀末~16世紀初頭当時の社会的価値観では、「大きさ=豪華さ=富みと権力の象徴」が優位にあったということと、「創造物」には、駄作から傑作に至るまでの、線引きが難しいけれど確かなる「善し悪し」「審美」が存在するというということが推測できるわけです。
 
 ダ・ヴィンチの作品と言えば、縦横数10センチの手頃なサイズから、縦横2メートル前後の巨大なもの。さらには、大聖堂や城の天井画や壁画まで様々です。が、作品のサイズもさることながら、当時の最先端の技法「明暗と陰影の技法」に加え、彼が水準を高め完成させたと言われる「遠近法」や「ぼかし技法」によって、さらに「奥行きと凝縮された世界観」を深め高めたことでも知られています。
 
 その一方で、人体図、解剖図や、動物、はたまた創造(想像?)の新発明機械などの「写真より精密か?」とさえ思わせるスケッチの緻密さは、今日の私たちでも息を飲む見事さがあることも言うまでもありません。
 
 つまり、彼自身が示した「大きさ=偉大さ=見事さ」には、単なる「派手、迫力」ではない何か。「虚勢や威圧」ではない「説得力や感銘」が強烈な結果の「存在感の大きさ」や「深み、重み、奥行き」といった、「後に残る感動」をよしとする想いが込められているのではないでしょうか。 

 このこととは、「癒しツアー」さんのダ・ヴィンチ名言集にも納められている次の言葉で裏付けられるように思います。

 「どこか遠くへ行きなさい。(そうすれば)(目の前の自分の)仕事が小さく見えて来て、もっと全体がよく眺められるようになります。不調和やアンバランスが、もっとよく見えて来ます」

 この言葉は、ダ・ヴィンチ自身が、創作の最中に、作品を遠くから眺めて吟味していた、ということだけを意味してはいない筈です。

 私の持論への、いささか「我田引水」的ではありますが……….。
ダ・ヴィンチの「全体を俯瞰する」に関する名言の真意は、このコラムで何度か申し上げている、私が猫から学んだ最も重要なことのひとつ。「樹に捕われず森を観ること」と通じるように思えてなりません。

 
 近代以降の人間の多くは、「合理的」をよしとし、「現実的」や「結果論」で物事の価値を判断しがちです。
 それが「当たり前」になっている感覚では、「樹を見て森を観ないのは駄目だ」と言われ「そうなのか」と思っても、手元足下を見ないようにして、森を「ぼーっ」と眺めるだけでは何も気づかないばかりか、足下でつまづいて転んでしまいかねません。もちろん、ダ・ヴィンチが言わんとしていることには到底及びません。

 逆に、その弊害を教訓にすることも含め「足下手元がおろそかになっては駄目だ」という考えも、ある意味説得力があると言えましょう。
 そのような考え方からすれば「樹に捕われず森を観ること」は、「現実や結果から逃避している。それでは単なる理想論。悪く言えば夢想家、馬鹿者だ」とさえ言えるかも知れません。

 このように、目の前のこと、自分のことで精一杯。必死で余裕が無い私たちにとって、「樹に捕われず森を観ること」は、言葉では分かりますが、具体的に実践するのはとても難しいように思えます。
 
 しかし、ダ・ヴィンチ自身が残した創作は、上記の名言と一見矛盾し相反するかのように、「緻密で正確」なのです。にも関わらず「全体を俯瞰して見ろ!」と言うのは何故なのか?

 それはおそらく、実際に「離れて見てみろ」とか、「全体=森を観ろ」ということよりも、「総てが関連している」、「細かな個々は、全体の一部品である」という「感覚」を常に忘れずにいるべきである、ということではないでしょうか?

 つまり、天才ダ・ヴィンチは、筆先ペン先ににじり寄って微細な精密画を描きながらも、「全体との調和やバランス」を感じながら創作(仕事)が出来る。
 が、私たちは、ついつい肝腎なそれ(森を感じること)を忘れてしまう。そんな私たち向けに表題の言葉が発せられたに違いありません。

 私はこのことも、以前お話致しました「猫の道行き」によって、猫に気づき教えられたのです。

 「猫は道に迷うことがない」

 何故か? 

 そもそも猫は、「道」をさほど頼りもせず、信頼もそこそこで、執着、固執などは絶対にしない。その代わり「地理」を把握しているのです。

 だから、犬や猫嫌いの人間に攻撃されるなどの緊急事態に於いても、迷うこと無く初めて走る退路をまっしぐらに逃げることが出来る。

 しかし、日常的に、半径200メートルとも言われるテリトリーの「総て」を探索して理解しているわけではない筈です。実際の野良にそんな余裕はありません。
 が、確かに「感じている」という形で「把握している」には違いありません。

 ダ・ヴィンチが残した言葉の「調和とバランス」は、そのことを意味していると考えられます。

 ダ・ヴィンチの眼にもまた、「小さいなりをして、一日のほとんどをお気に入りの場所で昼寝している猫」は、決して、広大な森を常に駆け回っているように見えた筈はないどころか、むしろこじんまりとした小さなスペースの、言わば「井の中の蛙」のようでさえあったことでしょう。
 
 しかし、猫の「物事に何時迄も執着しない」かと思えば、一時見せる「もの凄い集中力」とその切り替えの技は、常に「全体を感じ」つつ、その時々に必要なことを聡明に判断出来る才能であり、ダ・ヴィンチも大いに学び模範としたのではないか、とさえ思えます。

  つまり、表題の「最高傑作」の言葉の意図は、造詣物・存在としての美しさというよりも、猫の「心持ち」に対する感銘と評価にあるのではないでしょうか。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

自然の動画
おもしろい動画


Posted in 猫の名言 | タグ | 猫のオーラは天井画 – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

猫の恩返し – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Tom Roeleveld

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 22 「猫の恩返し」

 
子猫たちは、親猫の所有物ではない。神さまからの預かりものだ。

(元捨て子猫:Nyajiraと元捨て野良猫:Chimy)
 

 おそらく捨て猫で、野良経験はさほど長くなかったと思われる「Chimy」は、2010年4月。車で一時間以上遠くの某薬品会社支店のスタッフさんたちに連れて来られました。雄雌ふたり兄弟を出産した日の当日。母子そろってでした。
 
 スタッフさんたちは私の知人の知り合いで、「会社で野良が出産した。色々教えて欲しい」との電話に、「どうぞどうぞ」と言っただけなのに、ほどなく連れて来てしまったのです。

 「薬品会社なのでお互いリスクが高い」と言われ、突っ返す訳にもゆかず。その後も色々あって………….、娘息子共々、今日も苦楽を共にする家族です。

 
 おそらく捨て子猫であったろう「Nyajira」は、その前年2009年の梅雨の切れ間の6月末。近所のホームセンターからの「店舗裏庭に子猫が居るが捕まらない」のSOSで急行して保護しました。生後三ヶ月程度でした。

 駆けつけた当初は里子に出す予定でしたが、「もしや?」と思って「にゃじら?」と声を掛けたら。それまでずっと泣きっぱなしだったのが、「ぴたっ」と止みました。確かに中々捕まらず。「ぴゅーーーっ」と凄い勢いで逃げ回っていたのも、名前を呼んだ後はすんなり捕まりました。
 
 「もしかしたらあの『にゃじら(一世)の生まれ変わり?」と思った上に、やはりその後色々あって、今だに家族の一員です。

 「にゃじら」という名は、私の愛読漫画、小林まことさんの「ホワッツマイケル」に登場する、薮睨みのどら猫さんから拝借したものです。

 一方の「チミー」は、私が生まれた頃に居た猫の名で、その後も我が家の「定番」「名跡」となっていて、今居る「チミー」は五代目です。

 なぜ、似た様な境遇なのに、一方は「どら猫の名」一方は、「名跡」と差があるのか? それは、「にゃじら一世」が、亡くなる直前の一週間を除いて、二三年「野良」と「餌付けのおじさん」の関係だったからです。

 まだ福岡市郊外に引っ越して来て直ぐの頃。「保護猫の会」も仲間が集まりそうになると減ってしまい、「TNR」。すなわち、「野良を一時捕獲し、不妊処置をしてまた放つ」という活動に至れないまま、怪我や病気の悪化の場合のみ保護していた頃のことです。
 「野良は、野良で毅然と生きている」。それに対する敬意のつもりで、「創作の名前では呼ばない」と決め、言わば「あだ名」で呼んでいたわけなのです。

 一方の「チミー」は、四代目が里子に出て別の名前に替わって「名跡が空席だった」こともあるのですが、会社スタッフさんたちが付けた名前「びびりん」があまりに可愛そうで、「名跡」を差し上げたということです。
 捨てられた時とその後のことで、「不安と恐怖のトラウマ」が激しく。とても警戒心が強いから「びびりん」だったのでした。

 それでも、出産直後に別な家に連れて来られたのに、その落ち着き振りたるや見上げたもので、自身も小柄で病弱なので、娘息子も小さく神経質ですが、それなりに立派に育て上げました。
 それどころか、「恐がり」はすっかり解消したのに、神経質な性質はそのまま「生意気、身勝手」伸び放題。我が家の「我が儘トップ3」を母子で独占しています。

 息子「マーシャ」が七ヶ月になった頃、主治医先生に「去勢手術」のための健康診断に連れて行きました。
 
 ところが、「まだまだこんなに小さいじゃないか!」とあっけなく言われて帰宅した数日後。私が荷物を担いで部屋に入ったスキに、部屋を飛び出し他の子の部屋に行き、荷物を置いて捕まえるまでの数分間に、「にゃじら」と母親「チミー」を含む三雌を妊娠させてしまいました。

 「にゃじら」も、子猫の頃に捨てられ、その前の栄養状態も良くなかったのか? 小さく生まれて小さく育って、「ふっくらして来たな」と思っても3kgちょっとの小柄な猫です。なのに、七頭も産んでしまいました。

 落語と形態模写の名跡に「江戸屋猫八」さんというお名前がありますが。幾ら猫のお乳が八つあるからと言っても。出具合の善し悪しで、赤ん坊が交互に選んで吸いますから。最多で五六頭がせいぜいです。なので、「七頭」は、普通の母猫でも大変。しかも「にゃじら」は、超小柄。毛並をボソボソにして、自分の命と引き換えに育て上げました。
 
 「にゃじら」の出産の数日後、「チミー」の方は、四頭出産し、二頭が死産。一頭は、直後に「チミー」は諦めてしまい。私が必死で授乳しましたが、三日保ちませんでした。そして唯一、今も元気な超小柄ながら、我が家で一番声と眼が大きい雌「Luna」一頭だけが育ったのでした。

 ところが「チミー」は、我が家に来た時の「見上げた落ち着き振り」とは全く逆転し、出産の翌日から驚くほど異常に呼吸が早い。死産の根本原因も心配ですから、病院に行かねばならなくなりました。

 しかし、生まれたばかりの「Luna」は、どうするのか? 

 まさか、七頭の我が子の授乳だけでも瀕死の「にゃじら」に託すわけにはいかない。「大丈夫そうか?」と病院に行っている間に、何かのきっかけで気が立って、よそ者の「Luna」を蹴散らすか、かみ殺すかも知れない。
 さりとて、母猫の保温が無いところに置いても行けず。「一緒に病院に」とも考えましたが、どのような展開になるか?想像も付かない。母猫自身がかみ殺すかも知れませんし、そうならずとも、また育児放棄をしてしまうかも知れない。

 で、結局。どう転んでもリスクは少なくない。ならば、「この子たちを信じよう」と、「にゃじら」に預けてみたのです。

 すると、「にゃじら」は、まるで察していたかのように懐に受け入れ、「Luna」も、迷わず「にゃじら」のお乳をむさぼりました。「チミー」も我が子を盗られたと慌てる様子も全くなく。

 
 「凄いねーにゃじら」「もしかしたら、分かってたのかい?」と言うと。
 
 「子どもたちは、私たち皆が授かった宝だ」「当然だよ」

 と、平然と言うのです。ガリガリのボロボロの身体なのに。

 
 「チミー」は、軽度の心筋症の疑いがありました。
 それでも、その後のこの六年。悪化もせず、元気にしています。

 
 出産後、子猫たちの眼が開き始めた頃。陽当たりの良い部屋に「子供部屋」を用意し、ふた家族を移動させました。
 
 「まさかな」「流石にそれはないよな」と思いながら。

 ふた家族を、同じサークルの中に入れてみました。

 「にゃじら」と「Luna」と、「にゃじらの子どもたち」は、互いにもうすっかり馴れていましたが。「チミー」がどう出るか? 

 すると、「チミー」は、まるで当然であるかのように、「にゃじら」の子を三頭引き受け、それぞれ四頭ずつ授乳してくれたのです。

 「チミーの恩返し?」

 もしそれが無かったら、「にゃじら」自身の命も危なかったかも知れません。

 八頭の雌猫四頭は、皆小柄ですが。雄猫四頭は、御陰で皆立派な体格です。

  二頭のちいさな母猫が、共に力を合わせて赤ん坊を育て上げる。
 感動的な場面を見る度に、猫の心の純粋さと、ひたむきさに涙しそうな日々でした。
 
 「チミーも偉いね!」「立派な恩返しだ!」

 「でも、まるで『当然!』のようだね」と言うと。

 「そうよ!」「だって、この子たちの命は」
 『神様からの預かりもの』だもの」

 と教えてくれました。

 
 その時迄、私の願いも虚しく三日で逝った子を放棄した「チミー」を、少し「クール過ぎる」と思っていたのですが。
 「育たない」と知るや、早々に「神様にお返しする」という感覚で、残る子たちに総ての力を注ごうと切り替えたのだろう、と思わされたのでした。
 「命を大切に」とは昔から聞かされていました。
 しかし、それを否定する論理的な根拠が無いだけで。納得して肯定するほどの論拠も、実は持ってなかったかも知れません。

 だからでしょうか? 「自分の命、自分の人生、どうしようと自分の勝手」のような人間が増えた気がします。
 
 しかし「預かりものだ」は、この上も無い立派な論拠です。それを知れば総てのことが納得出来ますし、つじつまが合います。

 それを教えてくれたのが、捨て猫・野良猫の困難に立ち向かって奮闘を続けて来た。小さな二頭の母親だったのです。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

自然の動画
人間関係の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 猫の恩返し – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

大空と猫 – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Takuma Kimura

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 21 「大空と猫」

 
人間の価値は成果の大きさではない。その人間が苦難を乗り越えた勇気の大きさである。

Charles Lindbergh (チャールズ・リンドバーグ 米飛行家 / 1902~1974)
 

 「猫に関する言葉じゃないじゃない?」と思われるでしょうが。やはり、彼のリンドバーグも、非凡な愛猫家として知られています。

 「冒険家、探検家やアスリート」には、比較的「愛猫家」が少ないのは事実です。「愛猫家」が多い、芸術家、随筆家の様に、自宅の自室に籠って仕事をするタイプと比べると、「猫が好きでも接している時間が得られない」という事情もあるのかも知れません。しかし、大自然と向かい合ったり、自然や、肉体精神の極限と向かい合うタイプの人たちですから、根本的に「社会や人間関係」という視野よりも、大きな世界に意識が行っているのだろうと思われます。
 その意味では「猫と感覚が近い」と言うことが出来るかも知れません。

 リンドバーグはまた、同じテーマを次のように補足するような言葉も残しています。

「成功は成し遂げた内容によって図られるのではない、その人が出くわした障害の大きさと打ちのめされそうな困難に立ち向かって奮闘を続けた勇気によって図られるのである。」

 リンドバーグは、1927年に「大西洋単独無着陸横断」を成し遂げ、その二年後に結婚し、1931年には、「北太平洋航路調査」の際に来日もしています。ところが、その翌年には、長男が身代金目的で誘拐され殺害されています。
 他にも、心臓病の姉のために、学者と「世界初の人工心臓」を共同開発するなど。当時の人々が「無理だ、無茶だ、夢物語だ」というようなことに、果敢に挑戦するとともに、ひじょうに多くの苦難を乗り越えて来た、正に「勇気の塊のような人」と言えましょう。
 
 しかし、そのような人が、単純に自画自賛のように表題のような言葉を発するとは思えません。

 女性運が無い人が多い(と言っても、その原因の多くは当人にありそうですが)芸術家・随筆家の「英猫家」とは異なり、リンドバーグの場合、聡明で実直な夫人に恵まれ、その支えがあったことも事実のようです。 
 それでも、彼自身の心の世界では、何度もくじけそうになったり、挫折や自己嫌悪を味わったに違いなく、それが表題の言葉に至ったのに違いありません。

 すなわち、彼の言葉にある「価値=勇気」は、「打ちのめされそうな困難」、つまり「苦しみ、悲しみ」に比例するものであるということではないでしょうか。

 
 さて、そんなリンドバーグは、そのような人生観と壮絶な体験と。つかの間の平穏な自宅での一時、膝の上でまどろむ愛猫とを、どのように結びつけていたのでしょうか?
 
 言うまでもなく、猫たちは、「何かの成果、名誉」のようなものを得ようとはしません。「成果」と言ったら「鼠や蜥蜴(トカゲ)を仕留めた」くらいのものかも知れません。
 また、猫たちは、そもそも「物(財産)」を所有しませんし、それを得ようと欲する意識もありません。しからば、そのようなものに対して努力をするということもあり得ない訳です。
 
 しかし、猫たちの「苦難に立ち向かう姿」は、リンドバーグの「単独飛行」にも匹敵する、「孤独と不安と恐怖」との向かい合いに違いありません。

 もっとも、猫たちの場合、それが「当たり前」と思っているのでしょう。
 しかし、不治の病と壮絶な戦いを繰り広げて逝った子たちの多くは、「人間だったら耐えられないだろう」と思うほど過酷な戦いを続けました、その「苦しみに比例する勇気」には頭が下がる思いばかりです。

 
 私は日々、何頭もの猫たちと接していながら。ご飯や様子見の一瞬であろうとも、その瞬間は、「その子だけ」に集中しています。でないと、異変に気づくのが遅れてしまいかねません。
 また、猫は「比較意識や自意識」というものを持ち合わせませんので、その御陰もあって、猫同士を比べたり、全体の中で個々を評価をすることが無いのも、「その子」に集中出来る理由かも知れません。

 なので、何十頭との出会いを経て、かなり後になって気づいたことですが、「我が家で生まれた子」と、「元野良(捨て猫や野良二世)」とでは、総体的にかなり意識の違いがあるのです。

 それは実に明白なことでした。
「家で生まれた子」は、誠に「世間知らず、苦労知らず」で、「元野良」は、実に感心なことに「ものの有り難み」というものを良く理解しているのです。

 保護して数ヶ月の間は、個体差がありますが、「警戒心、懐疑心」というものがあります。が、それらが薄れた後は、「信頼関係」が日々高まります。
 そして、気づけば「このご飯好きじゃない」とか、「今欲しくない」などの「身勝手、ワガママ、気まま」は、ほとんど無いのです。そして、「年長猫」や「先住猫」に対する礼儀や遠慮も、「世間知らずの子」より遥かにしっかり出来ています。
 
 もし、猫に「良い子」と「そうでもない子」があるとしたら、やはり「苦労と悲しみ」の量の差にあるのではないでしょうか。
 
 なので、もしリンドバーグに「では、猫の価値の場合は?」と訊ねたらば。

「猫の善し悪しや価値は、血統毛並や見たくれ、可愛いさ人懐っこさではない。その猫の、苦難を乗り越える勇気の大きさと、その苦労が培った『有り難みの思い』である」とお答え下さるのではないでしょうか。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

星・宇宙の動画
人間関係の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 大空と猫 – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

猫が寝てばかりいる訳は? – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Ella Mullins

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 20 「猫が寝てばかりいる訳は?」

 
猫は長者の生まれ変わり

日本の諺
 

 同じ意味合いで、もうひとつ日本の古い諺に、「猫は傾城(けいせい)の生まれ変わり」というのがあるようです。「傾城」は、花魁の最上格(?)、「長者」も「傾城」も、いずれもふんぞり返っていれば良い立場で、猫はまったく「そんな感じだ」と揶揄した諺でしょう。

 実際、どのような常套句になっていたのでしょうか? 
 おそらく戦後には、もう誰もいわなくなっていたのでしょうけれど。それ以前は、「まったくうちの猫ったら、寝てばかりで! 仕事しなくて良いわねえ」に対して「しょうがねぇさ。猫は傾城の生まれ変わりだって言うじゃねぇか」のように言っていたのでしょうか? 
 
 当連載のVol.12で引き合いに出しました、猫が語る有名な一作「吾輩は猫である」でも、この二種の諺は登場しません。
 ただ一カ所、Vol.12でも述べた、主人:夏目漱石をぼろくそに言う別の下りで、
嫁さんが呼んでも返事をしない。そんな漱石に「吾輩」がつぶやく台詞に

「返事をしないのはこの男の癖である。(~) 人間も返事がうるさくなる(面倒くさい)くらい無精になると、どことなく趣があるが、こんな人に限って女に好かれた試しがない。(~) 親兄弟に見離され、あかの他人の傾城に、可愛がらりょうはずがない、とある以上は、細君にさえモテない主人が、世間一般の淑女に気に入るはずがない。」

 があります。

 そんな無粋な漱石が吉原詣でをするはずもないのですから、唐突に「傾城」が出て来たのは、ここはやはり周知の諺に掛けて、「猫だって好いてやらんぞ」の意味の洒落なのではないでしょうか? 

 同じことは、西洋人も考えるようで、

「猫は貴族のようなもので、何もせずとも我々の賞賛に値する。一方犬は、卑屈だ。媚びへつらうことで自分の立場を獲得する。」
Alexandre Dumas (デュマ 仏小説家 / 1802~1870)

が知られています。

 むしろ西洋人は、日本人より遥か以前に「諦め」が徹底していたようで、「最早、何もしなくて良い!」「そのままが素晴らしい」と語った著名人は、

「優美な花瓶のごとく、猫は、たたずんでいても流れるようだ。」
George F. Wil (ジョージ・ウィル 米コラムニスト / 1941~)

「猫の役割は、そこにたたずむだけで賞賛されることだ。」
Georgina Strickland Gates (米写真家)

「静謐の理想型は、たたずむ猫の中にこそ存在する。」
Jules Renard (ジュール・ルナール 仏小説家 / 1864~1910)

などなど、続々出て来ます。

 確かに、猫は、一日の半分以上を寝て過ごしています。でもそれは、多くの生き物にとって当然自然のことであり、むしろ人間が動き過ぎ、働き過ぎなのかも知れません。

 「偉い!」というか「不憫」というか、同じく群れて暮らす、草食動物や犬の先祖や猿たちと異なり、「物を作る」ということを始め、後に「畑を耕す」ことも始めましたから、「寝る間も惜しんで」ということになってしまったのでしょう。

 さらに、社会がどんどん大きくなって、社会への義務としての労働や人間関係の付き合い事に費やす時間が増えれば、その他に自分の時間を持とうとすれば、さらに「寝る時間」が無くなってしまう。

 ある見方で言えば「人間は、創り出す喜びに人生の大半を費やす、希な生き物である」と言える反面「人間は、その創り出すという性の為に人生の大半を犠牲にする、哀しい生き物である」とも言えるのかも知れません。

 もっとも、人間と猫の睡眠時間を単純に比較出来ないという見方もあります。
それは、人間は、完全に安心し切って熟睡することが出来ます。ところが、猫は、親や兄弟も一緒に暮らすよほど安心できる環境でないかぎり、熟睡はそうそう出来ないようです。寝ていても、耳のアンテナは、敏感に働いている時が少なくありません。

 猫はまた、目をつむりながら考え事をしている時も多く。何も考えずに「うとうとする時間」をもこよなく愛する生き物ですから。それらも「寝ている」とされてしまえば、「寝てばかり」と言われてしまうのでしょう。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

自然の動画
人間関係の悩み・ストレス


Posted in 猫の名言 | タグ | 猫が寝てばかりいる訳は? – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません

猫の時間 – 連載コラム「猫の名言」

猫の名言
photo: Eriel Al Dasaïd

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 19 「猫の時間」

 
美学的に完璧なものが世の中に二つある。時計と猫だ。

Emile-Auguste Chartier (エミール=オーギュスト・シャルティエ 仏哲学者 / 1868~1951)
 

 中世の実在の詩人アラン・シャルティエにちなんで、「アラン」のペンネームで「幸福論」などを著わしたことで知られる哲学者であるとともに、モラリストとしても知られ、ある意味で近現代の価値観に通じるヒューマニストであるとも思われます。

 ですが、実際は、帝政フランス末期に生まれ、激動の時代を経て、ふたつの大戦を体験した83年の生涯でした。

 一貫して教育の現場に立ったことでも知られる人物でありながら、何故か彼が「美学的な完成品」と崇めるのが、「猫と時計」。やはりここにも何か深い想いが感じられます。
 
 もちろん、単純に「見たまま」、アランの「個人的好み、見解」を述べただけかも知れず、「猫」と「時計」には、直接の関係は無いのかも知れません。
 フランスで時計と言えば、アランの本名「Chartier」から「h」を取った「Cartier」が有名ですが、カルティエの初代から三代目迄がアランの生涯と重なります。アランもまた、「名匠が命を込めた芸術品」に心を奪われていたのかも知れません。

 が、私は、むしろ「猫」と「時計」は、深く関わっているからこそ、アランは並べて語ったのだろう、と思えてならないのです。
 
 それを深く思わせるのが、アランの様々な名言です。

 おそらく多くの人々が、彼の名言を、後世の「ポジティヴ思考(指向)」の原点のように解釈するのだろうと思われます。ところが、私は、彼の次の言葉に彼の真意と信念を感じるのです。

 
 「どちらに転ぼうとかまわないという日和見を決め込んで、

 ただドアを開け、幸福が迷い込んで来るのを待っているだけでは……….

 やってくるものは哀しみだけである」

 
 また、このような文言もあります。

 
 「戦いを自分の意志で行うのであるならば…….

 困難であるほどその勝利は喜ばしいものである」

 
 つまり、アランの真意は、「くよくよしない」「何事も良い風に捕らえよう」的な「ポジティヴ思考(指向)」の原点ではなく。

「自分の意思で行動を起こし、貫いてこそ、得るものがある」

ということのようなのです。言わば「アクティヴ思考(指向)」なのでしょうか。

 それをもっと明確に示す彼の言葉には

 「何もしない人間は、何も愛することが出来ない」

 があります。 

 また、彼は第一次世界大戦が勃発すると46歳になっていたにも拘わらず志願し、自ら前線に赴いたといいます。それは「国を守る」とか「敵をやっつける」という感覚ではなかったらしく、むしろ、戦後著わした著書では、戦争の「愚劣さ」を綴り、そうとうな批判を浴びたそう です。

つまり、「戦争の愚かさをこの目で見るために」従軍志願したのではないでしょうが、
「あれこれ言ったり、批判するならば、実際に体験すべきであろう」とは考えた可能性はあります。

もちろん、志に燃えて従軍し、挫折と幻滅を痛感したのかも知れません。

 このような、「気概と志を強く抱いた人物」を思わせる逸話に、表題の格言を重ねて考えてみましょう。
 
 「美学的に完璧」という意味が、アランほどの人にとっては、「見栄え、見たくれ」ではないことは、容易に察することが出来ます。しかも、彼は自らの人生を「教育」に捧げた人物です。「自らを育て、奮い立ち、そして行動せよ」と子どもや若者に説いて来たに違いありません。

 「まるで、止まったら死ぬ鮫のようだ」という表現が、その当時のフランスにあったかどうかは分かりませんが、もしあったならば、人々はアランをそう評したに違いありません。そして、アランから見れば、「日和見の待ちぼうけ」は、「既に死んでいるかのようだ」と見えたのではないでしょうか。
 
 つまり、
 彼にとって「時計=時」は、「命」の象徴なのではないでしょうか。

 そう思えば、「時計」は、その「命」を、冷たくもなく、温かくもなく、ただただ寡黙に真摯に刻み続けています。
 
 そして、「猫」は、見事に「それ」を分かり、
 やはり、寡黙に真摯に自分の意思で行動し貫いているのです。

 なぜならば、
 猫は、「生きる」ということと、「時」ということに対し、常に真剣に向かい合っているからです。

 「ほとんど寝ているじゃないか!」
 と思われがちですが、

 それも、「この上も無い心地よいひととき」を満喫している時間かも知れず、
 体中の働く細胞たちと休む細胞たちの心と向かい合っているのかも知れません。

 アランの想いの象徴が「猫と時計」であるからこそ、
 その姿は「美しい」という想いと言葉に通じるのではないでしょうか?

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


連載コラム「猫の名言」
TOPページ ごあいさつ Vol. 1 Vol. 2 Vol. 3 Vol. 4 Vol. 5 Vol. 6 Vol. 7 Vol. 8 Vol. 9 Vol. 10 Vol. 11 Vol. 12 Vol. 13 Vol. 14 Vol. 15 Vol. 16 Vol. 17 Vol. 18 Vol. 19 Vol. 20 Vol. 21 Vol. 22 Vol. 23 Vol. 24 Vol. 25 Vol. 26 Vol. 27 Vol. 28 Vol. 29 Vol. 30 Vol. 31 Vol. 32 Vol. 33 Vol. 34 Vol. 35 Vol. 36 Vol. 37 Vol. 38 Vol. 39 Vol. 40 Vol. 41 Vol. 42 Vol. 43 Vol. 44 Vol. 45 Vol. 46 Vol. 47 Vol. 48 Vol. 49 Vol. 50

【関連ページ・サイト】
著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




「癒しツアー」人気コンテンツ!

他の元気になるコンテンツ紹介です。

星・宇宙の動画
おもしろい動画


Posted in 猫の名言 | タグ | 猫の時間 – 連載コラム「猫の名言」 はコメントを受け付けていません