連載コラム「猫の名言」
日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら)
Vol. 28 「猫と子どもの方が社会的?」
全ての猫が遊びにルールとしきたりを持つ。それは参加するプレーヤーによって様々だ。猫は、もちろんルールを破ることはない。もし、以前のルールに従わないことがあれば、単に新しいルールを作ったということだ。その新しいルールを急いで覚えて、遊びを続けるかどうかは、あなた次第だ。
Sidney Denham (シドニー・デンハム)
この連載コラムで常々私は、「猫は独立(単独)棲の生き物」で「人間は群棲の生き物」と述べています。その度に、「なるほど!」と思って下さる方が居る一方で、その度に「納得いかない」という気持ちに駆られる人もいらっしゃる筈です。
何故ならば、これら相反するふたつ共、人間の本質的かつ普遍的な心理であるからです。
人間は、「群れに属し守られて生きる」ことを由(良し)とする心理を持つと同時に、「群れに埋没したくない=自我を見出したい」という心理を併せ持つのです。勿論ここにも個人差があり、同じ人でも時期によって異なったり、日々状況に応じて変化する人も少なくない筈です。
デンハム氏は、表題で「遊びのルール」とおっしゃっていますが、前回(Vol.27)で述べた様に、基本的に心も体も健康的な猫は「同じことの繰り返しの日々」を好む「常同性」が強い生き物です。故に「遊びの場合」には限らないはずです。
そしてそれはデンハム氏がおっしゃるように、「個々の猫によって異なる」のです。「ご飯だ!」となると決まって先にトイレに入る子、爪を研ぐ子、私におでこを撫でられるのが「しきたり」になっていて、自らでおでこを差し出す子。私のおでこに自分のおでこを当てて(結構強く)「ごっちん!」としてくれる子。開けられたケージの扉の鴨居におでこを押し付けて、「変顔」を見せてくれる子………….。と、実に様々です。
これは、前述しましたように「しきたり」であり、個々の猫の「ルール」なのです。ところが、やはりデンハム氏がおっしゃるように、或る日突然しなくなることもあれば、別な「しきたり」に変更されることもあるのです。
それら変更にも必ず必然的な理由があり、しばしば体調の良からぬ変化の時もありますから、私たちは、その謎解きに日々苦悶する訳です。
このような猫の様子を見ると、「人間の子どもと大人」の違いについて、しみじみと考えさせらえます。
子どもの頃は、「そんなことはしちゃ駄目!」「何故ならばそれが決まり(ルール)だから!」と叱られ、「勝手気まま・我が儘も駄目」と躾けられる。
ところが、「そう言う大人はどうなんだ!」というと、かなりいい加減だったり、矛盾に満ちていて、それらは「反抗期」の正当性、大義名分にもなる訳です。
ここ数年、聖職と呼ばれた職業の人や、公共的な仕事の人の信じられないような事件や、食品や建築の手抜きや不正が多く報じられます。
そのような事件が「増えた」という実感は、報道のなせる印象操作もあるかも知れませんし、情報が昔より多く迅速に駆け回っている所為もあるのかも知れません。
そもそも、思春期の頃に都合良く「ルールは破る為にあるものだ」などという台詞が、如何にも格好良く聞こえ、そんな気分の年頃に限ってそんな言葉が何処からとも無く聴こえて来るものです。
つまり、子どもの頃に言い聞かされていたこと、「ルールを守るのが真っ当な社会人=大人」という方式は、どうも「嘘くさい」ということを痛感して行く姿こそが「大人になること」のような状態なのです。結果論としてですが。
つまり、これ(大人こそルールを守らない)こそが事実、真実であるとして、では、「何が子どもで何が大人なのか?」ということが疑問・テーマになる筈だ、ということなのです。
既に大人になった(一応?)私たちはまだしも、このことを我が子や孫に問われた際に、このテーマについて明確な答えを説くことが出来るのか? は、一度しっかり考えておく必要もあるかも知れません。
かなり偏った極論かも知れませんが、私の持論・結論を申し上げるならば、「大人こそルールを守らず、子どもこそ見事にルールを守る」と言えます。
大人は、まるで子どもの頃の「それしちゃ駄目、あれも駄目」の「束縛感・不自由感」から解放されただけでなく、かつての「恨みはらさずにいられよか?」とばかりに、自分の時間や自分のお金を手にした途端、「好きな時に好きなものを好きなだけ食べたり飲んだり」する。
勿論、様々な制約があって、全てが「好き勝手に出来ない」。すると、それを「不満、ストレス」として被害意識を抱き、発散出来る時や勝手出来る時にそのウサをはらす。
ところが、子どもたちを見ていると、実に真面目に真摯に「ルール」を守っているのです。限られた土地で、限られた道具の草野球では、「ホームラン禁止」だったり、それを破って代わりが無いボールを無くした場合、「弁償の掟」があった。
尤も、「物質的に豊か」になった今日、「買って返せば良いんだろ!」という時代になってしまったかも知れませんが、それはそれで「便利が『ルールを守る精神』を阻害している」という皮肉な現象であると言えます。
つまり、不便や物不足や、条件が限られていればいる程、子どもたちは智恵を出し、そこから生まれた「ルール」を自らで納得して遵守する訳です。逆にそれを守らない子は嫌われ、仲間外れになって行きます。「遊びがつまらないものになる」からです。
要するに子どもたちは、「遊びがより楽しくなるために、ルールが必要である」と大人以上に真面目に真理を悟っているのです。
大人だって本質的には同じ筈で、「手抜き・不正」をすれば、自分の仕事に誇りを持てなくなるばかりか、愛せない=辛いしんどいばかりなって行く。その分、お金が欲しくなり、そのお金で好き勝手をして「ストレス対策」とする、という、自作自演のおかしな悪循環にハマって行く訳です。
勿論、そんな大人はごく一部でありましょうが、子どもの場合、殆どの子が「心からルールを大切にしている」と言うことは出来ます。そして、彼らの間では「ルールを大切にする子=良い奴」なのです。
それと比べると、大人の中で、子どもと同等に「ルールを納得して、自分達に必要なものだ、と愛している」人は、ルールを守っている真面目な大人の中でも少ないのではないでしょうか?
こう考えると、「子どもと大人とは?」の結論は、悲しいことに「子どもは真のルールを心から大切にする」であり「大人は、しかたなしのルールを嫌々守る」とさえ言えそうなのです。これはある意味「純粋さ」と同じ話しかも知れません。
さすれば「子どもは幼稚で社会人としては未熟だが、大人は立派だ」という子どもの頃に強要された観念に対する「どうも違うっぽいぞ」という疑問は、ある程度正解だったと言えるような気がします。
ただ、それでも人間の子どもたちの「ルール」は、二人以上で何かをする時に限られています。逆に、子どもが自分独りのために、自らで「ルール」を課すことはまず無いのでは? と思います。
つまり「ルールに関する真面目さ」に関して子どもは、大人以上に「社会的」ということになります。
ところが、猫たちは皆、自分自身で自分だけに「ルール」を課し、それを決して他者に要求しないのです。
極めて純粋な「克己心、自律心」である。というのは、褒め過ぎでしょうか?
最後までお読みくださってありがとうございます。
民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏
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