猫がしでかすことは謎か?それとも詩か? – 連載コラム「猫の名言」




猫の名言
photo: Renars

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 31 「猫がしでかすことは謎か?それとも詩か?」

 
二人の人間が異なった感情を持つとすれば、それこそが対話を可能にする。私たちが本当に何物も所有しなくなった時、そこに詩があるのです。

John Cage (ジョン・ケージ 米国の音楽家、作曲家、詩人、思想家 / 1912~1992)
 

 20世紀の作曲家なのに「クラッシック音楽の作曲家」というのもなんだか奇妙な感じがしますが、当事者もそう思うらしく「現代音楽」とも言いますが、それではロックやジャズも「現代音楽」じゃない?と言われれば、やはり苦しさは免れません。
 そして、実際のところ、やはり愛猫家さんなので近々登場しますブライアン・イーノとか、現在のところ愛猫家であるか?の確証はありませんが(おそらくそうであろう)スティーブ・ライヒなどになってくると、「プログレシブ・ロック」や「フリー・ジャズ」「インプロヴィゼイション・ミュージック」などとの境目は曖昧になって来ます。

 従って、何をして「クラッシック音楽だ」「ポピュラー音楽だ」の話しをすればキリがなくなるので、ここでは割愛させて頂きますが、肝腎なことは、何故か「現代音楽の著名人」に愛猫家が多いことです。
 彼らの先駆的存在のエリック・サティーやドビュッシー、ラベルも愛猫家として大変有名です。
 
 それにしてもジョン・ケージの表題の言葉は、まるで禅問答のようです。分かる様で分からない。けれど、頭が痛くなりそうなほど難しい感じもしない。そして、全体的にはなんとなく心地が良い。けれど、やはり言語や論理としてはきちんと理解出来る訳ではない。と、まるで彼の音楽そのものです。しかも、それを日本語に翻訳しても尚そうだということに驚かされます。

 まず「二人の人間が異なった感情を持つ」と言っている以上、「異なる意見」以前に、「感情」の段階で、「通じあっていない」とか「分かり合えない」という結構深刻なことを言っているようにも思えます。
 そして「対話を可能にする」という表現は、とても面白い倒置的(逆説的)な表現で、普通ならば「対話が必要になる」でしょう。

 この文言には、実際の曲名ではなく、別な演奏者の初演がたまたまそうであったことから「4分33秒」という曲名で知られるケージの曲を想起させられます。
 楽譜には、ただ「第一楽章;休み、第二楽章;休み、第三楽章;休み」と書かれているだけ。楽器の指定もないのですが、ピアノ曲として演奏する場合、ピアニストは拍手を受けてステージに登場し、礼をして椅子に座り、ピアノの蓋を開けて楽譜を起き、4分33秒(でなくても良いのですが)したら立ち上がって礼をして舞台袖に下がる、というものです。

 かと思えばLP時代に三四枚、ずっと同じことの繰り返しとしか思えない音楽があったり。また、それと殆ど同じに聴こえる曲で、二人の演奏者が殆ど同じメロディーを演奏しているのですが、実は微妙にずれるように作曲されているがために、次第にズレが大きくなりどんどん違うメロディーに聞こえ(勿論ハーモニーなど感じられませんが)やがては次第に「殆ど同じに聴こえ」始め、一瞬「全く同じになり」またズレ始める…………。などなど。

 尤も、ジョン・ケージのこのような特殊な発想は、音楽でも愛猫でも先輩格のエリック・サティーたちが先駆者で、「4分33秒」の真逆の世界の「ベクサシオン」というサティーの作品は、1分程度のメロディーを840回くり返す指示があるもので、奇しくも初演はジョン・ケージ(たち)によって演奏され18時間40分で完奏したとのこと。(日本のTV番組でも検証されたらしいです)

 いやはや、愛猫家はけっこうですが、良き時代でもあったのでしょうが、好き勝手なことをやるものです。否、もしかしたら、彼らはなんとかして、「猫」を「音楽」で表現しようとしたのでしょうか? 少なくとも普通の人間以上猫に近しくあり、長く一緒に居て、感覚も幾分同化していた可能性はあるかも知れません。

 
 このような思考回路のジョン・ケージですから、普通ならば「異なった感情を理解し合うには対話が必要である」で済むところを、表題のように言うことで、何やら「別な意味」が存在するような「気にさせる」訳です。

「遊び」と言ってしまえばそうかもしれず。いっそのこと「悪ふざけ」と言ってしまえそうな感じもします。

 やや大雑把な括りですが、エリック・サティーから、この連載コラムの前々回の画家:ダリやジョン・ケージなどの時代、シュール・レアリズムやダダイズムがもてはやされた時代です。「デペイズマン」などと言う「普通のものが普通じゃない在り方」をしている時に、人間が何をどう考えるか?などの「真剣な悪ふざけ」が為された時代でもあります。

 例えば、帰宅してテーブル(食卓)を何気に見ると、逆さに伏せたコーヒーカップの上に、カップソーサーが置かれているのを見た様な気分です。意味も目的も不明・不可解の極みでしかかないのです。

 ところが、実は愛猫家の多くは、しばしばこれらを実体験するのです。
 
 ある時、録音の仕事で筒型で片側には皮を張らない太鼓を持ってスタジオに入り、ガラスの向こうでディレクターさんにカウントを出されて叩き始めたら「ぼそっ!」と鈍い音。「うわっ!破れている!」と心臓が凍りそうになったことがあります。良く見たら、太鼓の中にタオルが入っていたのです。

 またある時は、病院が嫌でキャリーバッグを見るなり逃げる子猫をやっと摑まえ、診察台で引っ張り出そうとずると、兄弟が「ぞろぞろ」三匹出て来たこともありました。「ずいぶん急に重くなったなぁ」とは思ったのですが。

 このように、私たち愛猫家は、通常では考えられない形に物が組み合わさって置かれていることを見ることは結構あるのです。
 
 最近分かったのは、折り畳み式の小さめのテーブルから本棚の上に飛ぶと、テーブルにストッパーを付けていても微妙に揺れて、その上のティッシュが低いテーブルの薬類(これはかなり厳しく躾けましたからいじりませんが)に落ちるという「仕組み」を発見して納得しました。なので、大概の場合、猫たちに「悪戯」の意識は全くないのです。 
 ですが、「不思議な偶然を生み出す天才」もしくは「ドミノ倒しの名人」であることは間違いないとは思います。

 20世紀の前半から中頃に掛けて、私たちは彼らのような一風変わった芸術家に、既存の常識や既成概念や固定観念というものの脆さや危うさ、場合によっては残酷さや哀しさを教えられました。
 それでも尚、私たち人間は、再び同じ様な「観念」や「常識」にすがってしまい、基本的なことは何一つ改めずに、近年再び同じように一触即発の対立の時代を迎えています。
 
 もしかしたら、ジョン・ケージの「考えれば考える程難しく」「考えなければ腹立たしい程悪ふざけのような」数々の創作の真意には、とてつもなく強い願いがあったのかも知れません。

 そう思うと、詩人でもあった彼の表題の言葉の後半もまた、しみじみと思えてくるのではないでしょうか?

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


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著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




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