猫と猫的な人間の出逢い – 連載コラム「猫の名言」





photo: torne (where’s my lens cap?)

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 50 「猫と猫的な人間の出逢い」

 
猫は人間の規範に添って生きることはないし、自分を決められた行動様式に合わせることもない。だからこそ、猫は創造的な人間と結びつくのだろう。

Andre Norton (アンドレ・ノートン 米国のSF作家 / 1912~2005)
 

 いよいよ当連載もとりあえず最終回となりました。
 大変長きに渡り、何方もがお忙しいこのご時世、短かからぬ文章に何時もお付き合い下さって、誠にありがとうございました。

 皆様からのご感想を伺う機会がありませんでしたが、先日思わぬところで民族音楽の関係で初めてお知り合いになった愛猫さんに、当連載のことをお話ししたら、「しばしば涙しながら全部熟読した」と言って下さって、予想外のことに驚かされました。
 
 「意味が分からない」とか、「まぁ意見としては面白いかもね」というご感想の方が多いのだろう、と思っていたからです。勿論、それが事実で、感想を下さった方はお優しいリップサービスも加えて下さったのだろうとも思います。

 
 とは言いつつ、極力普遍的なもの、そして「樹を見て森を観ず」のような個人的な印象論や決めつけに成らないようには心がけて来たつもりです。なので、もしかしたら「意味が分からない」と思われた方も、しばらく経って読み返して下さると、また異なった印象を感じるかも知れません。

 「自画自賛」のように聴こえるかも知れませんが…………。
「普遍的」というものは、昨今では「大衆的」と混同されがちですが、本来「普遍的」というものは、得てして「一見して当たり前のように思えたり」もしくは、その逆の「分からない」と思えるものだという意味で申し上げています。

 もしこの先、読み直しで下さって新たな再発見でもありましたら、是非ブログ(Ameblo)の方にでもメッセージをお寄せ下さると幸いです。(日頃あまり更新していないので恐縮ですが)

 
 この「個人の印象か?普遍的か?」「普遍性は大衆性か?」というテーマは、
正に本日の表題の名言が言わんとしている奥の意味に強く関わります。

 表題の言葉は、もう既に何も加える必要の無い程に「分かり易く」「言い得ている」と言えます。が、強いて言えば、猫という存在を媒体にして「人間の創造は、規範や既存の様式に添わない」と言っているとも考えられます。

 しかし、そこに「猫」という、極めて「マイペース」で、しばしば「我が儘」で「身勝手」のように誤解される存在を介在しますと、
 
 「ありのまま」の中から「非常識なもの」が生まれ、それが「新鮮な創造物」となる、かのような「公式」さえ見出すことが出来ます。
 が、果たして語り手のアンドレ・ノートン(このペンネームは男性名ですが、女性のようです)の意図はそうなのでしょうか?

 私が最も意外に思い、驚き感心しましたのは、、彼女の作品は、同じく愛猫家のSF作家H・G・ウェルズ同様に人間の「文明(科学)」の行き着いた先の「わくわくドキドキする未来世界」を描いている、ということです。彼女のヒット作は「ミュータント少年」の物語であり、「宇宙関連」が特に目立ちます。

 つまり、逆説的に不思議なことに、(前回のファーブルの名言のテーマにも通じますが)「文明(科学)の発展と進化」を思い描いた人々の中に、傍らに猫を置いて居た人が少なくない。ならば、そこには何らかの「関連性」があるのではないか? ということなのです。

 これについて詳しく述べる機会が今ないことは申し訳ございませんが、表題の名言が持つもうひとつの大切な要素(提議)である「創造とは?」ということと絡めてならば、是非、今回お話しすべきと思っています。
 
 つまり、「新たな創造」とは、人間の歴史を振り返れば、それは常に「既成観念」や「既存の物」を覆す、「全く新しい発想」でありました。しかし、人々はそれに驚きながらもやがてはそれを享受し、そして「当たり前」になって行き、新たな「改革/革新的なもの」を追い求めたり、待ち望んで来た訳です。

 しかし、その仕組こそが、ファーブルが懸念したものであり、言わば「一本道を邁進する」かのような物であったのでは? と考え直してみるとどうでしょうか?
 そう考えると「単に新たな刺戟が欲しかっただけ」とも言えるのではないでしょうか? その傾向は、高度成長期が終わり、「生活必需品」は殆ど揃ってしまった後、それでも「購買意欲」を促すための様々な工夫や付加価値によって「市場経済を活性化させ続ける」という大命題に襲われるようになってから、一層顕著になったように思います。 

 それ故に、巷では「えっ?まだそんな? そんなものはもう古い古い!」などと言われて恥をかく。「私はこれが良いのだ!」などというと「古くさい」とか「懐古主義」などと言われ「前向きじゃない」と仲間外れにも成りかねません。

 このような不思議な風潮が何故か、数百年前から当たり前のように蔓延し、「常に革新的」であることが「進歩であり成長であり発展である」として来たのが人間とその文明の歴史であると言えます。

 しかし、例えば、「無農薬野菜」や「スローフード」「マクロビオティック」などは、明らかに「復古主義的」とも言えます。また「流行はくり返される」とも言います。
 更に、それら以上に、「物事の見方や考え方」は、「コロンブスの卵」のようなことも多くあった筈です。少なくとも、近年の医学の飛躍的な進歩のひとつには、「発想の転換」というものが多く見られます。

 
 さすれば「創造」とは、何も「真新しい」ものや「奇抜なもの」「既成観念を打破するもの」ばかりではないかも知れないということです。

 そう考えて、この連載に登場した「猫と深く関わる著名人」の作品や業績を振り返ってみると、意外にも(もしくは、予想以上に)「或る種の共通性」が見えて来るのです。

 それは、殆どの著名人の業績や作品が、数十年、場合によっては数百年経った今日でも色褪せることなく、「新鮮で斬新である」ということです。逆に、この連載に登場しなかった人々の作品や業績で、その時ばかりは大いに話題になっても、程なく忘れ去れているものはとても多いのだろうと思います。 

 もちろんこのことは、厳しく吟味して概念を構築しての話しではなく、あくまでも私の印象的な認識ですが、実際この連載の50編の中の30編前後の「猫に関する名言」以外は、「あまり大したものが無い」と言っては失礼ですが、「猫賛美犬けなし」のものが残る程度で、ほぼ世界に知られている名言の殆どが網羅されたのだろうと思います。その一仕事を終えて「気付けば」のことですから、ある程度事実に近い印象なのではないでしょうか。

 そして、気付いてから考えてみれば、なるほど合点が行きました。というのは、その「色褪せない業績」は、何れも「珍しさ、奇を衒った、既成観念の打破」ではない「新しさ=発想の転換」であったり、今まで人が「見落としていた、考え落としていた」ようなことが主体であるからでした。やはりそのようなものは、時代が変わっても、流行や価値観がめまぐるしく変化しようとも、ある程度「普遍的」に存在するものなのでしょう。
 例えば、巷で「様々な新しい調味料」や「組み合わせの食べ方」が次々と考え出され新製品が生まれて行く中で、その逆転の発想は、「何も調味料をつけないこと」のようなものだと比喩することが出来ます。 
 
 表題の語り手アンドレ・ノートンにしても、「現代文明(科学)の先」を予測したり模索したりというよりは、「宇宙への飽くなき憧れと畏怖」というものが根本にあるような気がします。
 ただ、偉そうなことを言いますと、彼女は「きっと神髄を分かっている」のだろうけれど、まだ論理では整理で来て居ないような気がします。それ故、冒頭に書きましたような「規則に縛られないことが独創性の基本」のような幼稚で表面的な解釈も許してしまうのだとも思います。
 
 そもそも「自分を決められた行動様式に合わせることもない」というのも実に言葉足らずで、「人間が決めた行動様式」に関してはそうですが、「猫が決めた様式」には従います。と言うよりむしろ「非常にこだわります」。しかし、それもまた「猫が決めた」というよりは、「自然の摂理」や「状況や状態からの必然」に素直であるのだろうと思います。(これは比較的最近気付いたのですが)

 例えば、その例を挙げれば、前々から、「食事」ってなると、必ず「爪研ぎ」をする子が何頭か現れますが、最近やっと分かったのですが、そうやって「一旦気を落ち着けないと、無茶喰いをして嘔吐してしまう」と気付いた子のようなのです。
 また、しばしば「皿からわざわざ手で床にこぼして食べる子」は、懸命に「食欲を増そう」と努力しているようです。体調が良い時にはしませんし。 更に、必ず隣から顔を出す子を1~2回ひっぱたく意地悪で勝ち気な姉御も居ます。それもまた、自らの食欲を鼓舞するようであり、弟分の逸る気持ちを抑えているようでもあります。などなど、「考え直し」をしてみると、気付かなかった「答え」というものに辿り着くのです。

 それもこれも猫と感覚が「同化しつつある」私の経年変化なのだろうと共に、「分かろう」という想いの為せるものである訳ですが、その一方で、
 「今ある姿には必ず理由(道理)がある」
 けれど
 「その理由(道理)を分かれば代替もあり得る」というところに、
 新たな発見と創意が生まれるような気がします。
 
 そして、それは「単なる珍しさや奇を衒ったもの」では全くない為、
 時代が変わってもその価値は損なわれない。
 なにしろ、変えられないし替わりがない「本質」にとって、
 極めて「相性が良い(自然な)もの」であるからです。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


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著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




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