連載コラム「猫の名言」
日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら)
Vol. 44 「猫の脳裏に景色が見える」
猫は一度頭に入れた事を忘れるようなことは絶対にない。人間のようにくだらない事に頭を煩わせないからだ。
Paul Corley (ポール・コーレイ)
ポール・コーレイは、現在の若手(恐らく)の作曲家ですが、この連載でもご紹介した、ドビュッシー~サティー~ジョン・ケージ~ブライアン・イーノなどの流れを組む所謂「現代音楽」の人と言うことが出来ます。
その作品は、「アンビエント(環境音楽)」に属すると思われますが、「ダウンテンポ」と呼ばれた極めてゆったりとしたテンポ感をさらに下げた感じて、「あれっ?終わったか?」とさえ思ってしまうほどの音楽でもあります。
その極限まで音を省いた音楽には、或る種別の「景色」。例えば、荒涼とした風景や、朝もやの中の遠くの山並のようなものを感じる人は多いかも知れません。
そんなコーレイの表題の言葉もまた、「猫とは」というテーマに於いて、誠にその神髄を掴んだ明言に思えます。尤も、現代人だからでしょうか? その言葉には、いささか厳しい言い切りや決めつけ的な感じも否めませんが。
彼が言いたいことは、当連載のVol.7でご紹介した、英SF作家:H・G・ウェルズが、猫には猫の目標と意志があるけれど、犬と人間の頭は混乱している(要約)とほぼ同じにも思えます。
その一方で、Vol.1、すなわち当連載の一番最初にご紹介した、英詩人:ウォルター・スコットが述べた、猫の脳裏には人間の常識を越えた多数のものが在る(要約)とは、同じようでいて逆のようにも一瞬思えます。何故ならば、今回の表題の言葉と、スコットの言葉を合わせると、猫は、人間以上に多くのことを記憶していることになってしまい、「それでも混乱しないのは何故なんだ?」ということになってしまうからです。
そこで私は、このことをコーレイの音楽を聴きながら考えてみました。
その音楽は、前述しましたように、限りなく音やリズムを省いた、或る種「荒涼」とさえ言いたいような「音の景色」が広がります。
ところがコーレイが、1970年代の「アンビエント系」作曲家と異なるのは、突然、もの凄く素直で素朴な「西洋クラシック的なメロディー」や「ポピュラーミュージックのような親しみ易いメロディー」が現れては消えることです。
その訳を論理的に検証すると、それは、1970年代迄のアーティスト(作曲家など)が引きずっていた、ジョンケージなどの「現代音楽の作曲家」に課せられた大命題「旧式の音楽(モーツァルトやベートヴェンなど)からの脱却」と「耳に新鮮な新しい音楽」そして「既成の観念や常識を覆す」というような大それた役割を担っていない。そのつもりが無いからである、という答えに至ったのです。
2000年代後半に世に出たコーレイにとっては、1980年代のポップスでさえ、1970年代のアンビエント音楽や1950年代の現代音楽と同じような「古い音楽」であり、「何処か懐かしい」とさえ感じられるのかも知れません。それ程に世代と時代の隔たりがあれば、何のこだわりも制約も、使命もなく、あくまでも自然に素直に音を並べることが出来るのでしょう。
しかし、それでは、単なる音の遊びになってしまいかねません。もしくは、1970年代に欧米で始った「DJ/クラブミュージック」のような方向性に行ってしまいます。だとすれば、それは「ダンスミュージック」であり「アンビエント」ではなくなってしまいます。
私のような昭和30年代生まれの人間にとっては「DJ」と言えば、深夜放送のディスクジョッキーであり、「クラブ」と言えば、「ク」にアクセントが付く、ある程度お金持ちが行く酒場ですが、1980年代に日本でも一部で熱狂的なファンが生まれた「クラブ_」は、アクセント無しで平坦な声調で言う、ダンスホールであり、「DJ」は、そこでレコードを掛けるアーティストで、二枚のレコードを高速のスウィッチングで切り替えたり、手でレコード盤を止めたり逆回しにしたりして、踊る聴衆のノリを狂わさずに、全く「新しい、その瞬間限りの音楽」を在り物(録音された)レコードを用いてパフォーマンスする新しい演奏(?)家を指します。
おそらくコーレイもまた、ある時はそういった「クラブ」で踊り、またある時は「アンビエント」に夢うつつになったり瞑想したりして育って来た人なのでしょう。「音遊び」や「既成の音のセレクトのセンス」は、筋金入りな感じがします。
しかし、それでも尚、何らかの大きなテーマがあることで「遊び」以上のものが表現されているのですが、それ故彼の音楽は、一環して「アンビエント(環境)」であり「サウンドスケープ(音の景色)」なのです。つまり、彼の音楽には、実に様々な音(素材)、音色が登場しますが、全てが「風景画」のようなまとまりとなっているのです。
と、こうして彼の音楽や、そもそもの「アンビエント・ミュージック」「サウンド・スケープ」を理解すると、彼が述べた表題の言葉のみならず、ウォルター・スコットが述べた言葉もまた、すんなりと理解出来ると思われます。
つまり、「猫の頭の中に、確かに記憶されていること」は、全て「景色」なのだ、ということなのです。
実際に、それぞれの猫が生まれてこのかた見て来た「風景」が記憶されている、ということもありましょうが、猫にはその他に、人間には思いつかない「脳内」と「記憶」のシステムがあるのでしょう。
それは、飼い主の発した「嬉しい言葉」や嬉しい「おやつ」、猫嫌いのご近所さんが怒鳴りながらぶっ掛けたコップの水。うるさく吠える犬の居る家。ライバルのドラ猫との喧嘩。そして、猫だけに見えるのかも知れない「宇宙」や「神様」。別れ別れになった親兄弟の「魂」などが、全て「景色」のように脳裏に並んでいて、全てが「自然の摂理」「自然の風景」のように関連して存在している。
それが「猫の脳裏にある景色」ということなのではないでしょうか。
その域に達して音楽を理解し創作し。猫を理解し、愛すのであるならば、
コーレイが言う多少きつめの言葉「人間のようにくだらない事に」もまた理解が可能に成って来ます。
何故ならば、「自然の摂理」や「風景」のように並ぶ世界に於いて、「好かれているのだろうか? 違うのか?」「信じてよいのだろうか?」とか、「どう言ったら好かれるか?どう言ったらら嫌われるか?」「どう言い逃れをすれば良いのだろうか?」などは、いずれも「景色」「風景」を美しくはしないからに他なりません。
そう考えると、コーレイは、実に猫を分かり、極めて猫的な感性の持ち主であることが分かり、その音楽もまた、より一層心休まって聴くことが出来ます。
最後までお読みくださってありがとうございます。
民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏
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