猫は人を詩人にさせる – 連載コラム「猫の名言」




猫の名言
photo: Martyn Fletcher

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 


Vol. 33 「猫は人を詩人にさせる」

 
犬は散文であり、猫は詩である

Jean Burden (ジーン・バーデン 米国の詩人 / 1914~2008)
 

 前回、Vol.32で紹介しましたジャン・コクトーの表題の名言は、初め、著名な詩人でもあったにしては「随分長ったらしい言葉だな」と思いました。
 しかし、よくよく読んで考えてみると、その才能と心と情熱と時代の奴隷のようだった波瀾万丈の人生から生まれたひとつひとつの想いは、あの長さでも語り切れないものがあるのだろう、と思い直した訳です。

 それと同時に、「詩というよりは散文? むしろ説明文?」と初め思ったその文言のそれぞれの言葉には、考えれば考える程深くなってゆく奥行きがあることに気づいたのです。そう考えると、コクトーの名言は、長くとも「詩」なのかも知れません。

 このことで私は、今迄「詩」というものは、読み手が様々な想いを巡らせる「行間」が命なのだ、と理解していた観念を改めるに至ったのです。
 今迄は、多くを語らないことによって、読み手それぞれの人生観や感性、価値観を反映させた解釈が許される余地があることが「詩の力=普遍性」と考えていたのです。もちろんこれは、「詩」の代表的な姿のひとつなのでしょう。

 ところが、ジャン・コクトーによって、「詩」には、もうひとつの形、在り方、そして「力」があることを知らされるのです。それは、読み手それぞれの興味関心や共感によって、如何様にも深く読むことが出来、意味も重みも変わって来る「言葉の奥行き」だったのです。
 そしてそれは、読む毎により深くなって行き、まるで無限の言葉のトンネルのようであり、無尽蔵の気づき・閃きの宝庫のようでもあるのです。
 

 表題の米詩人の言葉は、実際は、どうも会話の一節のようでもあります。原文を別な訳し方にすると「犬はね! 何時も私が言ってるでしょ!散文なのよ」「猫は詩よ!」の感じです。つまり、詩人としての彼女の作品ということではなさそうなのです。その根拠は、フランスの諺に既に似たような「犬は、見事な散文であろう」「しかし,猫に限っては詩なのである」というものがあるからとも言われます。

 もちろんこれらは「散文と詩」「犬と猫」のどちらが高尚であるか? とか、美しいか?好むべきか?を論じているものではありません。むしろ逆なのでしょう。

 何故ならば、この連載でご紹介した言葉にもありますが、犬と猫を対比させた名言には、あからさまに猫賛美で犬を小馬鹿にしているものが少なくありません。が、表題の言葉や、おそらくその原典であろう諺には、そのような優劣は語られていないのです。
 最も近しい言葉が、当連載のVol.2でご紹介しました「犬は正直だが、無遠慮」「猫は余計なことを語り過ぎない」(米作家・写真家:ヴェクテン)でしょうか? なんとなく、猫の聡明さが言いたいようにも思えますが、正に「犬は散文、猫は詩」を意味しているとも理解出来ます。

 しかし実際、私たち愛猫家から、猫と暮らしていなくても「何となく猫が好き」という人に至る迄、「猫という詩」は、様々な存在感と距離感を持っています。

 例えば、野良猫と「通りすがりの関係」でしかない場合、その表情や仕種を見て、私たちは勝手な推測や物語を想像することが出来ます。
 
 「元気かい?」「しばらく見なかったけれど、病気か怪我でもしてたんじゃないだろうね?」「ライバルでも現れたかい?」「テリトリーは安泰かい?」と語りかけてみたり。警戒心や敵愾心の度合い。もしくは、何となく「甘えてみたい」ような素振りで、野良たちの生い立ちについても、あれこれ想像を巡らせたりします。

 自転車の籠に入れたDry-Foodを喜んで直ぐ食べてくれたりすると、嬉しくも「ほっ」とするのですが、ある意味Foodは、そんな「勝手な想像」の謝礼のようでもあります。

 ところが何年かそんな気楽な付き合いをしていて、これからもずっと末永くそれが続くと思っていた或る日。実際は、野良の平均寿命は、家猫の五分の一もない三年と言われますから、都合の良い楽観であることを思い知らされるのです。
 堅く固まった亡骸を拾い上げ、我が家の庭に埋めたことも二度程あります。

 怪我で一本の足が地に着かなかったり、少し歩いてぐったり横たわったりすると。それでも薮や家の影から出て来てくれたいじらしさも手伝って、どうにも保護せざるを得ない想いに駆られてしまうのです。

 そうして「我が家の一員」になった途端。その「詩」は最早「行間を勝手に楽しむ」ものではなくなってしまうのです。

 その表情や、短く返してくれる言葉から、より多くの、より本当の意味や答えを知ろうと必死にならざるを得ないのです。
 
 
 何処か具合が悪いのか? ご飯の味が気に入らないのか?に始まり。
 たくさん語りかけてくれるのは、心を許した証なのか? それとも何かを必死に伝えているのか? 家族になって嬉しくて感謝してくれているのか? 逆に「野良に戻せ!」の訴えなのか…………..

 そんなことを何年も、何頭もくり返し経験して行くと。何時だって「まだまだだ」と思いながらも、かつてよりは随分と分かるようになるものです。

 
 前にも申し上げましたが。私は長年犬とも暮らしていました。確かに、犬は分かり易い。尻尾を大きく振ってくれますし。表情も猫よりはっきりしている。猫が尻尾を振る時は、全く逆の意味の場合もありますから困ったもんです。
 
 
 でも、全てのことを考え合わせるに、「散文も犬も」「詩も猫も」。読み手の勝手な解釈の遊びの為ではないのかも知れません。

 犬も猫も私たちに必死に何かを伝えたくて努力し。分かってもらいたくてしかたがなく。同じように、散文を書く者も、詩人もまた。どう表現したらより伝わるか?を懸命に模索しているのです。
 それは手作業の技術者が、より精工で丈夫な物を目指すことと同じに。料理人が、素材の命をより多く活かしながら、受け手の喜びをより多く引き出そうと努めることと同じに。日夜必死に研鑽しているのです。

 
 しかし、私も含め人間は、「受け手」になった途端に、幾分身勝手になってしまうのでしょう。「今日は長い文章(散文)は頭に入らない」「そう!こんな心地よい言葉(詩)が一番良いね!」などと。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


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著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




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