猫と弁護士の深い関係 – 連載コラム「猫の名言」




猫の名言
photo: Manel

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 34 「猫と弁護士の深い関係」

 
犬はリベラリストのようなもので、すべての人を喜ばせようとする。猫は、みんなが自分を愛していることを知ろうともしない。

William Kunstler (ウィリアム・クンスラー 米国の弁護士 / 1919~1995)
 

 愛猫家の中には、意外に政治・思想活動家が少なくありません。本連載コラムでもご紹介致しました、Vol.9の英首相チャーチル、Vol.15のリンカーン(共和党)の他にも米大統領には、Th.ルーズベルト(共)、ジェファーソン(民主党)、フォード(共)、ブッシュ(共)、クリントン(民)が猫好きで知られ、その他、エリザベス一世、マリー・アントワネット、ナイチンゲール、レーニンなどなど。
 もちろん、圧倒的に愛猫家が多い芸術家、文筆家、発明家、科学者といった、言わば「引きこもり系」とは比べものになりませんが、意外さから言えば「多い!」と思わざるを得ません。

 何故ならば、「独立性の猫」と「引き蘢り」は相性が良いでしょうけれど、「政治家・活動家」のように、圧倒的な数の人間と接する人々は、極めて「社会的=群棲に適している」と考えられるからです。実際、「政治家・活動家」の中には、「愛犬家」の方が多い印象です。
 そんな人たちの中には、若い頃から仲間や友人に囲まれる「人気者」で、場合によっては「ボス的存在」という人が多く、「人心掌握」の天性の才能を持ち、どこかでそれを社会貢献に発揮することを「使命」と考えていたような人物が多く見られます。その一方で、同じ才能を逆の意識で活用してしまった愛犬家にはナポレオン、ヒトラー、ムッソリーニが居ます。

 その一方で、「指導者は常に孤独である」という言葉があります。偉くなればなるほど、昔の友人とも隔たりが出来てしまい、側近は皆部下のような存在、という分かり易い理由の他に、国民=民衆は、「大衆心理・群集心理」という言葉があるように、ひとつの大きな塊のように感じられるのではないでしょうか?
 そして、指導者は、常に先を考えていなければならず。最終的には全ての責任を背負った決断を下さねばならない。時には自分自身の心に反することであろうとも。などなどを含めますと、「群れの頂点」にありながら、孤高の立場なのかも知れません。

 愛猫家としても知られるウィリアム・クンスラーは、白人敏腕弁護士として、アメリカの公民権運動に大きな功績を為した人物で、その弁護は、黒人人権運動家のキング牧師、マルコムX、ネイティヴ・アメリカンたちの訴訟に始まり、民主党大会暴動事件(1968)の主犯格から、第35代大統領:ケネディー(民主党)暗殺に関与したとされる人物までを担当しているのです。

 なので、表題の犬と猫の話しに「リベラル」という、政治・思想用語が登場する訳なのです。普通、同じようなこと「すべての人を喜ばせようとする」を言うのであるならば、「芸人、コメディアン」が真っ先に浮かぶ喩えであるはずです。

 
 それにしてもクンスラーの幾分過激な華々しい経歴を、アメリカの政治家や政治に関心の高い一般人はどう見ていたのでしょうか? 極端な白人優位主義の人々やキリスト教右派と呼ばれるような人々は、「白人でありながら黒人、イスラム教徒、インディアン、コミュニストの味方をしやがって!」と言ったに違いありません。つまり単純な極論をすれば、保守派・キリスト教系の共和党共鳴者には大いに嫌われただろう、ということです。

 ならば、リベラル=民主党の支持者・共鳴者には好かれたであろう、ということになるのですが、実際、民主党の敵である容疑者を弁護し、ひとつは勝訴にも至っているのです。当然民主党側からも嫌われる。これでは前述の「孤高の存在」ではなく、まるでイソップ寓話のコウモリ。わざわざ嫌われているようなものです。

 しかし、考えようによっては彼のような人間こそ「ニュートラル」であるとも言えます。どっちつかずの「日和見」としての「中道」ではなく、頑に「どっちにもなびかない」という「中道=ニュートラル」というのでもなく。
「右にも左にもなれて」「右の精神性で左で活躍」「左の精神性で右で活躍」のように、「どっちでもない」ではなくて、「どっちでもある」なのです。これこそが「真のニュートラル」ではないでしょうか。
 そして、その時々の弱者や正義の為に、「どっちにもなれる」という極めて「ブレない」その頑強な精神性。それがクンスラーの正体なのではないでしょうか? 

 
 だとすれば、彼こそは「究極の孤高」を貫き通した人物と言えます。また、対立の双方を深く分かっていないと本当の意味では「正しい弁護」は出来ないのかも知れません。その意味では「弁護士の鑑」でもあったとさえ言えましょう。そして何故か「愛猫家」であった。
 
 犬を揶揄した彼の言葉には、「リベラリストは大衆迎合的である」という皮肉が込められているようにも思えます。また、彼が弁護を担当した人権運動家もまた、悪く言って「大衆煽動の技に長けている」という意味では、クンスラーから見れば「犬的」なのかも知れません。何しろ猫は、「好かれていることなど無関心」だというのですから、回りがどんなに評価し持ち上げようとも「リーダー」にはなろうとしないに違いないのです。
 
 尤も、「最高の弁護士」のように前述致しましたが、案外クライアントの評価は低かったかも知れません。クライアントの主張や権利が認められることが、社会のバランスに於いて重要であった場合は、見事勝利を勝ち取りクライアントからも絶賛されたに違いありません。が、そうでもない場合。クンスラーは「全てのクライアントから喜ばれる(依頼人の利益最優先)の弁護士」ではなかったであろうからです。なにしろ「大衆迎合」に対する批判精神は旺盛な様子ですし。

 加えてクンスラーを語る文言に頻繁に用いられる「独特な風貌」もまた、「薮睨み」「晩年のアインシュタイン、シュバイツァー(共に愛猫家)にも似たボサボサ頭」には、厳しさや独善的なプライドの高さも感じられ、どうみても単純な「庶民の味方」「弱者の味方」という感じではなさそうです。「助けてくれるかと思ったら、逆に説教された!」も多かったのでは? 
 
 とは言え、きっとクンスラーもまた猫同様に、「孤独から逃げはしないが、孤独を好んでいた訳ではない」のでしょう。
 なので、あまりに回りに理解されず、誹謗中傷の嵐の中では、「ふっ」と虚しさに暮れたかも知れません。そんな時、愛猫に目をやって「お前は大したもんだね」「人にどう思われているなんて、全く気にも留めていないのだろう」「それどころかこんなに愛されているというのに」と、二重の意味での羨ましさも含め、しみじみと思った時にこの言葉が思いついたのかも知れません。

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


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著者紹介(若林忠宏氏)

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