連載コラム「猫の名言」
日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら)
Vol. 30 「目先の利益の為ならず」
猫は食べないものでも散らかす。
インドの諺
インドと言えば、ヒンドゥー教を思い浮かべる方は多いと思いますが、勿論イスラム教徒も少なくないですし、全体から見れば少数ながらジャイナ教、仏教、キリスト教、ゾロアスター教も居て、多民族・多宗教の国であると考えるのが妥当でしょう。
それでもヒンドゥー教以外の宗教が、所謂「宗教」という概念の例外に漏れず「教祖」であるとか「経典」というものがありますが、ヒンドゥー教の場合、「教祖」は居ませんし、「経典」に相当するものは数千年の間に膨大な量が書かれており、一人の信者が一生の間に読破し理解し切れないものですから、所謂「聖書」の類いと同等に考えることは出来ません。この意味ではヒンドゥー教は、実に懐の大きな「宗教の集合体」のようであるとも考えられ、それ故に多宗教が共存し得たと考えることも出来ます。
そんなインドですから、「そんな物は無いだろう」と言うと必ず何時か出くわしたりする、誠にとんでもない国です。
例えば、私がかれこれ45年演っていますビートルズも弾いた弦楽器シタールは、「びよーん」といった音だけを出す伴奏の弦楽器を伴います。なので、ある時「ふっ」と、「二本の楽器がくっついていたら他所で演奏の時に便利かも」「いや、そんなものは流石にインドにも無いだろう」と思ったら、やはりありました。それは東京の武蔵野音楽大学・楽器博物館にも収められています。
と、このように、大げさに言えば、インドという国は、「世の中のありとあらゆるものが混在する」とさえ言いたいような国なのです。そもそも「樹に捕われず森を観る」という点では世界有数で、何しろ彼ら(ヒンドゥー教の僧侶など)は、「森=宇宙=森羅万象」ですから、その感覚に敵う者など地球上には存在し得ない訳です。
この連載コラムのVol.3で、スヌーピーの作者の言葉「もし道に迷ったら、一番良い方法は猫について行くことだ。猫は道に迷わない」をご紹介致しました。その際に、私が私のインド音楽教室の生徒さんに「インドでは道を尋ねては駄目です」と言った話しも致しました。彼らは「外人が珍しくて関わりたいから」も手伝って、「知りもしない道案内」をしてくれるからです。
しかし、そもそもインド人は、「道順」という概念が無いのです。その代わり地理をごく普通の人でも良く知っています。今私がこの原稿を書いている福岡・博多(厳密には別ものですが)とは全く逆です。
福岡・博多の場合、博多湾が湾曲しているので、戦国時代に栄えた街は、「広げた鶴の羽のような形」になっています。なので、海に近い方は、比較的碁盤の目のようになっているので、他の都市の城下町、門前町と変わりありませんが、海から遠くなるに従って、「扇形」を縦横に走る道の「誤差」が広がり、私が居る郊外などは、一本でも道を間違えたらとんでもない別な場所に至ってしまうのです。
何故ならば、周辺の道は気づかない位大きな面積の中で湾曲していますので、「西に向かって真直ぐ走っていた筈が、かなり行くと北に向かっている」ということが多くあります。
なので、こちらに来て最初、そのやむを得ない事情を知らない時には半ば呆れてしまったのですが、老若男女殆どの人が「東西南北」を言えないのです。東京ならば、「○○通りを○○交差点で北に」という様なところ。福岡・博多では、「右左」としか言わないばかりか、私が「北ですね?」と確認すると「北? かどうかは分からん!右だ!」と言われます。
インドの場合、これと全く逆。右左は道によって変わるから殆ど言わない。代わりに彼らは地理全体を理解しているから、「東西南北」ははっきり言える。正に「樹(道)に捕われず森(地域全体)を観る」というあっぱれな感覚なのです。
しかし、その理由は、以外に単純です。インドの道は、しょっちゅう「通行止め」になるからです。大雨が降ってマンホールから洪水が溢れるは、水道管が破裂して溢れるはで通れない。その工事でしょっちゅう通行止めになるけれど、雨期は雨の度に工事が中断する。そして、やっと工事が終わったと思ったら、聖なる牛が「どかん!」と道の真ん中に居て、とんでもない大渋滞で通れない。もしくは水浴びから牛舎に帰る水牛の列が500メートルも続いていて大渋滞。などなど。
なので、インドの人は、端から「道なんぞアテにしない」「あって無いようなもんだ」と考えているのです。 そしてその方が、古代から続くインドならではの感覚に近しいのでちょうど良いということなのです。
そんなインドの諺です、日本の諺と同じことを言っていても、言い方が「面白い!」と思わされるものが多くあります。
では、表題の「猫は食べないものでも散らかす」は一体どういう意味なのでしょうか?、
諺ですから、「猫を観てそのままを言った」筈もなく、比喩な筈です。
例えば私の好きなインドの諺に「空の豆は良く歌う(鳴る)」というのがあります。実際インドやアフリカでは、干した豆を紐で沢山繋ぎ振ると「かさかさ」良い音がする打楽器が数種類あります。が、これも「そのまんまじゃん?」と聞いては駄目なのです。
この諺の場合「中身の無い人間程あれこれ良く喋るもんだ」ということなのです。
なので、「猫は食べないものでも散らかす」もまた、インドならではの深い意味合いがある筈です。
その一例が上記しました「インド人は知らない道でも教える」なのです。平たく言えば「インド人はおせっかい」ということ。もっと悪く言えば「インド人は(まるで猫のように)余計なことをしたがる」です。
そのインド人にこの諺を出して比喩されるインド人たるや、想像しただけでも近寄り難い思いが募ります。(実際そんな知人は少なくありません)
ですが、それもこれも、もしかしたら「道が無いと歩けない」「樹を見て森を観ない」習慣に馴れ切った私たちだからかも知れません。
と考えながら眼の前の我が家の猫たちを観てその答えをまた探します。すると「ふっ」と思いつきましたのが。
猫もインド人も、しばしば「利己に関わらないことをする」ということです。
この連載コラムのVol.7の「真の自由」でご紹介しました「それぞれの猫はそれぞれの目的を持ち」と一見矛盾するようですが、その「目的」とは、私たちのような「目先の目的、目先の利己」ではなく、「遠くの目的(夢や希望や理念や宿命)」であり、実にスケールが大きいのです。
なので、「道を知らないのに教えてくれる」姿を「外人と関わりたいのだろう」という私の解釈もまた、目先感覚の短絡的な解釈なのでしょう。
きっと、インド人にその理由を聞けば「徳のためだ」とか、「カルマ(業)だからだ」と言うのでしょう。
最後までお読みくださってありがとうございます。
民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏
連載コラム「猫の名言」
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