猫賛美と猫けなし – 連載コラム「猫の名言」





photo: William Yeung

連載コラム「猫の名言」

日本初のプロ民族音楽演奏家でもあり、現在「福岡猫の会」で病気の保護猫たちの看病を続けられている若林忠宏氏による連載コラム。猫や人間に関する世界の名言を紹介しながら、猫たちとの生活のなかで筆者が体験したことや気づかされたことをつづります。(「猫の名言」TOPページはこちら
 



Vol. 48 「猫賛美と猫けなし」

 
三月の猫の様に惚れっぽい
ポーランドの諺

雑犬の毛並は悪いが魂は清らかだ。猫の毛並は美しいが魂は黒い
タタールの諺

猫の断食
トルコの諺

猫は祭りを恐れない
コートジヴォアールの諺
 

こんにちは、
 何時もご愛読頂きまして、誠にありがとうございます。

 本日の「猫の名言」は、世界各地の「猫にまつわる諺」の中から
 「猫賛美の諺」と「猫けなしの諺」を数編、
 ご一緒にその意味を考えて頂けたらと思います。

 
 三月の猫の様に惚れっぽい(ポーランドの諺)

 まず、東欧北部のポーランドの諺は、いたってシンプルで、世界の他にもありそうな「猫のサカリ」に関連しての「諺」です。
 ポーランドでは、冬は極寒の地方であるにも拘らず、猫は半外飼いなのでしょうか? 
 日本でも1970年代位まではそうだったように、避妊・虚勢するという習慣もなかったのかも知れません。

 そうすると、猫は、表題の言葉通りに、冬の後半に「サカリ」が来て、春先に出産、夏過ぎには子離れしてしまいます。なので、放って置くと、秋口にはまた「サカリ」となる訳ですが。何分「諺」のことです。「三月と九月の猫の様に」などというと回りくどいので「三月」だけにしたのかも知れません。
 
 また、ポーランドのような寒い国では尚更でしょうが、三月はまだまだ寒い日がありますから、人々は家に閉じこもって夜の町や村は「しーん」と静かなのでしょう。
 そこに「サカリのLove Song」のダミ声や喧嘩声のような激しい声がこだまするわけです。
 それに対して九月はまだ暖かいのでしょうか? 冬ほど閉じこもって居なければ、「サカリの声」も三月ほど酷くは感じないのかも知れません。
 
 そして、この「諺」は、極めてシンプルで素直に
 「おい!どうしたんだい? 息巻いて!」「まるで『三月の猫』みたいじゃないか!」
 のように言ったのでしょう。

 ポーランドも田舎に行けば、昔のままのたたずまいかも知れませんが、都会では、日本の都会と同じように、実際「三月、九月」どころではないのが、哀しい実状かも知れません。
 と言うのも、野良たちの場合、子離れ親離れが早いことと、様々な要因で都会の猫は自然の本能が狂わされていることもあるでしょう。初夏や年末や年初めにも「サカリ」になってしまうこともあって、昔は「年二回」がせいぜいだったのが、「三四回」ということもあるようですし、同じ猫ではなくても「皆が同様に三月と九月」ではなくなっていて、夏や冬に産んでしまうことがあるようなのです。
 
 当然のように、冬に生まれた子は、母親も弱っていますし、春を迎えられない乳児も多くなります。また、秋に生まれた子は、充分に育つ前に冬を迎え、同様の哀しいことが起きるようです。
 なので、「諺」自体は、「猫賛美」でも「猫けなし」でもないのでしょうけれど、
 「猫のサカリ」に関わる話しを聞いてしまうと、どうしても哀しい話題を思い出さずにはいられないのです。

 最近では、人間が生きて行くのも大変になり、私の「猫の会」への義援金もほんの数名の方がご無理して下さっている状況になりました。

 なのに先日、あり得ない状況の中で、生まれてひと月ほどの赤ん坊に呼び止められてしまいました。自転車で買い物帰りの道すがら、小雨が振って来たので「急ごう!」と思った矢先です。

 民家の裏庭から声がするので、歩道から声を掛けると、「とことこ」と出て来てしまい。そのお家が真っ暗だったので、とりあえず急いで連れて帰りました。
 翌日、お伺いしたところ「知らない!」「家では飼ってない」のお返事でしたから、「野良の子」なのでしょう。でも二三件廻っても同じ返事でした。不思議なことです。
 
 もっと不思議なことは、自転車でしたから、降りて片手で自転車を牽き、片手でその子を胸に抱きしめている間。なんとその子は道中10分程、全てが分かっていたかのように、暴れも鳴きもせず。じっとしがみついて家まで辿り着いたのでした。

 その子だけ天から降ってきたのでしょうか? 普通に考えれば数頭生まれ、何故か親兄弟と逸れてしまった。飢えや寒さも怖いですが、烏もとても怖いのが今日この頃です。

 
 雑犬の毛並は悪いが魂は清らかだ。猫の毛並は美しいが魂は黒い(タタールの諺)
 
 打って変わって、「ちょっとこれは誤解!思い込みですよ!」と言いたい「諺」です。
 タタール人(民族)は、近代でこそ彼のスターリンに強制的に西に移住させられたともいわれ、元々はシルクロードを闊歩する遊牧民族の一群で、西洋の「タルタル・ソース]の語源となった民族料理で知られる人々ですから、トルコ系、フン系が入り交じろうとも、基本的には「犬は好きじゃないが猫は嫌いじゃない」筈なのですが、どうも一世紀近い苦難の歴史の間に変わってしまったのでしょうか? 
 
 また、犬と猫では、その魂の純粋さはそんなに変わらないと思います。むしろ、生き様と言いましょうか、性質ではなく性格的には、やはり群棲の犬は「社会的で従順」で、独立(単独)棲の猫は「マイペース」という部分を「魂」と大げさに言っているようで、恐縮ながら、この「諺」だけで言う限りに於いては、「タタールさん」ちょっと決めつけな上に考察が浅いのでは?と思ってしまいます。

 尤も、「表現」として「悪い、黒い」というのは、必ずしも文字通りや表面的な意味ではなく。つまり、「浅いぞ」と言う私の方が「浅い」場合がありますから、一概には言えませんが……….。それでも「犬は清らか」と並べているのですから、やはり決めつけなのでしょう。 しかし「諺」としては長過ぎるこれは、一体どのように日常活用するのでしょう?

 
 猫の断食(トルコの諺)

 民族的にも歴史、文化的にもタタール人との関わりが浅くないトルコ人のこの「諺」は、「賛美でもけなしでもない」ということなのでしょう。しかも、使い方は二通りあるようです。(知らない!と言ったトルコ人の友人の方が多かったですが)
 
 つまり「えっ?お前が酒を断つだと?『猫の断食』じゃああるまいし!無理に決まってら」のような、「無理」「あり得ない」「止めときな」という場合と、
 「珍しく酒飲んでないんだって? 『猫の断食』のようだなぁ 大丈夫か?」のように、「珍しい」「心配」という意味合いです。

 実際、後者の場合、一般人が思っているよりは猫の身体と健康にとっては大きな問題で、猫は、腎臓や肝臓(或る意味)が、犬や人間ほど丈夫でない替わりに、
 「筋肉」が臓器としての役割(代謝や貯蓄などで)が高いという説もあり、
 実際「三日」食べない状態が続くと、早速危険な状態になり、「筋肉の貯蓄」更には「骨の貯蓄」を消化代謝してしまうとも言われます。

 それらは、幼少青年期の元気な時に蓄えるクセを付けたものですから、
 老齢になると、「元に戻りにくい」ということになってしまい、老化や病気が加速するとも言われます。
 
 その一方で、最近人間の「免疫機能」に関しては「断食法」が言われていますが、猫にもある程度はあるのかも知れません。しかし、上記の性質を考えると必ずしも当てはまらない可能性も考えられます。しかし、夜行性の本質的な傾向としては、朝~午前中に「一食抜く」というファスティングは健康管理には良いようです。

 などなど、「猫にとっての食事と断食」は、結構深いテーマです。

 トルコ人の場合、後者の意味合いでこの「諺」を使っている人は、
 猫に対する思いやりの感覚を豊かに持っているのだなぁと思わされます。

 
 猫は祭りを恐れない(コートジヴォアールの諺)
 
 コートシヴォアールがある西アフリカは、善くも悪くも西洋キリスト教的、及び東洋の儒教的な倫理観の尺度では計り知れない感覚が多く見られます。
 私には、西アフリカの音楽の師匠の他に、歌の歌詞を教わった友人や知人が結構居ます。一頃TVに良く出ていたサンコンさんともお仕事が一緒になったこともあり、色々お話を聴きました。

 そんな中で、この「諺」で思い出すことが「アフリカの閂」についてです。
 その話しでは、その部族の村の「閂」は、子どもでも簡単に開けられる、「フック」を掛けて、「楔状の棒を差し込むだけ」だと言うのですが、
 大切な「穀物や家畜」が、何故そんな不用心な仕組みでも、隣の部族の泥棒に入られないのか?と言うと、その「楔状の棒の元」には、隣の部族が怖れる「神」か「魔神」が彫刻されているというのです。

 恐らく、ヨーロッパやアジアでは、少なくとも中世以降。古いところでは古代で既に、「奉りを恐れる」という「畏怖の念」は失われているのでしょう。
 
 しかし、「アニミズム(自然崇拝)」が根強い地域では、「奉り」は、「楽しむもの」ではありません。結果として、ある程度の「トランス(恍惚)」状態になったり、あたかも「歓喜」しているかのような興奮や盛り上がりがあろうと、それは「神々との一体化」のようなもので、人間が娯楽をエンジョイする感覚とは異なるものなのです。

 故に、「諺」は、
 「猫は奉りを楽しまない」とはならない訳なのです。

 とは言え、この「諺」もまた、二通りの使い方がありそうです。
 
 あまり猫が好きじゃないとか、興味がない人は、
 「猫には奉りの意味や深みが分からない」つまり「馬の耳に念仏」や
 「猫に小判」的な意味合いで用いるかも知れません。

 しかし、逆の場合、
 「猫には神々が見えている」
 「だから、おどろおどろしい儀式や人間の狂気の様を見ても恐がらない」
 という全く逆の意味合いも考えられます。

 以前にも何処かでお話したと思いますが、
 猫が時々「蜥蜴の尻尾」や「蝉」を持って来てくれることがある、
 という体験をした愛猫家さんは少なくないと思われます。

 「ただ運んで来て、飽きて放っただけだろ?」と思う人も居るかも知れませんが、
 「とことこ」と銜えてやって来ては、丁寧に「どうぞ」と置いて行くこともあります。

 そして、「ああ、これはあれのお礼なんだな?」と思いつく飼い主さんも多いようです。
 つまり猫は「お礼」という概念を理解しているのです。
 ということは「神々への供物、貢ぎ物」の感覚が分かっているということに他なりません。

 尤も、現代では、「お礼」や「お返し」というものが、
 「本音では面倒臭い」ことがお互いに分かっているものですから、
 「お互いの労り、気遣い」の意味合いで「社交辞令はよしましょう」などとされます。

 つまり、「お礼、お返し」というものが、「人間対人間」になってしまったからに他ならない感覚なのです。
 しかし、昔の人は、「頂き物」や「お礼、お返し」は、
 まず「神棚」や「仏壇」にお供えし、「人と人の有難い関わりや気持ち」も全て
 神々に感謝したものでした。

 それが「近代化」や「合理化」によって、「人間の社会的な問題」や「慣習」
 「義理の意思表示」などに変化し、やがて、本音では「面倒臭い」とか
 「これ見よがしに馬鹿丁寧で堅苦しい」などと感じるようになった、
 と考えることが出来ます。

 もっとも、猫が「お礼」を持って来たとしても、
 それが「神々との関わり」を意味しているという確固たる証拠はないのですが、
 それでも「群棲ではない=社会性はほとんど重んじない」猫のことです。
 
 それを「猫のお礼」から差し引くと、そこには、「純粋な感謝」もしくは、
 「お礼、お返し、供物、貢ぎ物」の感覚が確かに存在する、
 ということにもなるのではないでしょうか?

 
 最後までお読みくださってありがとうございます。

 
 民族音楽演奏家/福岡猫の会代表: 若林忠宏


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著者紹介(若林忠宏氏)

「福岡猫の会」




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