伊達政宗の名言・格言




伊達政宗の名言・格言


伊達政宗(1567年~1636年)

戦国時代の出羽国と陸奥国の武将、戦国大名。幼少時に天然痘により右目を失明し、後世独眼竜とも呼ばれる。

【 経歴 】 ⇒ 名言へスキップ

1567年9月5日(永禄10年8月3日)、出羽国米沢城にて伊達家第16代当主・伊達輝宗の嫡男として生まれる。

1577年、10歳のときに元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。

1579年、13歳で戦国大名・三春城主、田村清顕の娘・愛姫を正室に迎え、1581年には戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る。

1582年6月、本能寺の変で織田信長(1534~1582)が天下統一を目前にして倒れる。

1584年、政宗が17歳のときに父・輝宗が隠居し、家督を相続。

1586年、政宗が二本松城を包囲すると二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と激突。数に劣る伊達軍は危機的状況に陥ったが、退却に成功し辛うじて窮地を脱した(人取橋の戦い)。

1587年、関白・豊臣秀吉(1537~1598)は関東・奥羽の諸大名に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令。しかし、政宗は命令を無視して戦いを続行。

1589年、22歳の政宗は、会津の蘆名義広軍を磐梯山麓の摺上原で破る(摺上原の戦い)。この戦で伊達政宗は南奥州の覇権を確立。

この頃、豊臣秀吉から伊達家に上洛して恭順の意を示すよう促す書状が届けられるも、政宗は黙殺。政宗は後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか迷っていた。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻囲中に小田原参陣を催促され、政宗は小田原に出立。政宗は秀吉に服属し、会津領は没収されたものの、伊達家の本領72万石を安堵される。

政宗が秀吉に服属後、北条氏政は秀吉に降伏。秀吉は奥州仕置を行い、秀吉の日本統一が達成される。

豊臣秀吉の死後の1600年、政宗が33歳のときに関ヶ原の戦いが勃発。政宗は徳川家康(1543~1616)が率いる東軍につく。

関ヶ原の戦いで家康が勝利後、政宗は1601年に仙台城の建設を始め、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生。石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位であった。

伊達政宗は第2代将軍・徳川秀忠、第3代将軍・徳川家光まで仕える。家光が参勤交代制を発布し「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなったという。

1636年6月27日、伊達政宗が死去。68年の生涯を閉じた。

Wikipedia(日本語版) / Wikipedia(英語版)


 

伊達政宗の名言・格言集




伊達政宗の名言(1)


名言・格言

 

物事、小事より大事は発するものなり。

油断すべからず。

 

- 伊達政宗 -


名言・格言

 

まともでない人間の相手を

まともにすることはない。

 

- 伊達政宗 -


名言・格言

 

仁に過ぐれば弱くなる。

義に過ぐれば固くなる。

礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。

智に過ぐれば嘘を吐く。

信に過ぐれば損をする。

 

- 伊達政宗 -


名言・格言

 

大事の義は人に談合せず、

一心に究めたるがよし。

 

- 伊達政宗 -


名言・格言

 

朝夕の食事は

うまからずとも褒めて食ふべし。

元来客の身に成れば

好き嫌ひは申されまじ。

 

- 伊達政宗 -


名言・格言

 

気長く心穏やかにして、

よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。

倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、

この世に客に来たと思へば

何の苦しみもなし。

 

- 伊達政宗 -


名言・格言

 

馳走とは旬の品をさり気なく出し、

主人自ら調理して、

もてなす事である。

 

- 伊達政宗 -



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